ゼロの錯覚

求めても得られない苦しみである求不得苦には様々な要因がありますが、「ゼロの錯覚」こそが求不得苦をもたらす最たるものであり、無駄な苦しみを生む要因の一つとなっています。大切なものとの別れからくる苦しみである愛別離苦についても同様です。

「ゼロ」は、数学的には偉大な発明であるものの、この心にとっては求不得苦や愛別離苦をもたらす要因でもあります。

不足感の正体はゼロを想起するというところにあります。

「ゼロ」という概念は数学的空間の中にだけあり、現実においては、記憶の連続性の中での記憶や想像とのギャップがあった時に想起される錯覚です。なぜなら、そこにそれがなければ、ゼロではなく、何もないということになるはずだからです。ということは、本来認識の対象となるのは、あるように見える対象の1であり、ゼロは想像上のゼロでしかありません。

今まで何度か「ゼロの錯覚」について触れていましたが、ここで今一度ゼロの錯覚についてまとめておくことにします。複数の投稿をまとめながら、さらにもう少し踏み込んで書いていくことにしましょう。

数学的空間では有用なゼロの概念をこの心にまで適用すること

本来、自分が認識しているものだけが「ある」という感じになっています。厳密に言えば、実在としてあるのではなく、「ある」と意識が認識して、その認識を心が受け取っている、というだけです。だから実体があるというわけでもありません。この心がそう受け取っているだけです。

そういうわけで「ある」が「1」で「無い」が「0」とするならば、本当のところは「1」しかありません。

ゼロの発見、発明の最大の誤謬は、数学宇宙、数学的空間では有用であるというゼロの概念をこの心にまで適用してしまったことにあります。

このゼロの概念こそが、この心にとっての最悪の敵といっても過言ではありません。

ゼロという概念は「無い」ということを意味していますが、本来自分の認識の中には「ある」しかありません。

もし「無い」を思い浮かべるとすれば、「今日は無い」とか「先ほどまであったが無い」とか「あると思ったが無い」という感じになるはずです。

不足の正体である「ゼロ」

「ゼロ」の錯覚こそ、不足の正体という感じになっています。

今目の前に「耳かき」があるとします。

一本の耳かきが目の前にあれば、それは1です。

で、その耳かきは誰かが何処かに持っていったのか、目の前から消えたとします。

その時には「耳かきが0本になった」と思うでしょう。

しかし、本来は耳かきという概念もクソもなく、無理やり表現すれば何も無いのです。

ゼロの概念を持ち出し、そうした「無い」という前提に立つと、あれもこれも不足を感じるようになります。

そうではなくて、ゼロを虚妄と気付き、まずは目の前の「ある」に着目してください。

そして「ある」を作り出しているものを観察してみましょう。

最悪の敵はどこにいるか?

記憶や想像とのギャップがあった時に想起される錯覚

「ゼロ」という概念は数学的空間の中にだけあり、記憶の連続性の中での記憶や想像とのギャップがあった時に想起される錯覚です。本来認識の対象となるのは、あるように見える対象の1であり、ゼロは想像上のゼロでしか無いはずです。

何かを欲する場合でも「あることが可能であるはずだが、今は無い」という感じになりますし、「無くなってしまったなぁ」と思うときは「前はあったが今は無い」という感じになります。

しかしながら本来、そこにそれがなければ、「ゼロ」ではなく、「何もない」ということになるはずです。

求不得苦は求めても得られない苦しみであり、愛別離苦は愛するものと別れる苦しみです。求不得苦は、「欲しいのに手に入らない」という苦しみであり、愛別離苦は「いて欲しいのにもういない」というような苦しみです。共に不足を感じて起こる苦しみとなりますが、そんな不足感の正体はゼロを想起するというところにあります。

意識の中で「あるはずだ」とか「あって欲しい」という、現実空間以外での意識的な情報空間での妄想があるからこそ、現実の空間を見たときの判断としてゼロという概念が想起され、不足を感じるというのが本当のところです(不足感や願望は「過去からの因果」という思い込み)。

「前はここにあったはずなのに」とか、「予測ではここにあるのが当然のはずなのに」とか「みんなが持っているのに自分の手元にはない」という風に、過去や未来、他者との相対的比較の中からゼロの概念が出てきます。

だから、ゼロは意識が生み出した虚像でしかなく、現実世界にゼロという概念はありません。だからゼロは錯覚なのです。

そしてそのゼロという錯覚を当然のものとしているからこそ、不足を感じ煩悶するということが起こり、そうした不足感が今の心の受け取り状態に影響を与えるという感じなります。

それを一貫して行っているものは何か、それが自我です。

「この印において汝は勝つであろう。」

記憶から起こる執著と不足の判定

我という意識、そして記憶によりゼロの錯覚が起こり、不足の判定がなされます。

あったはずのものが無い、あるべきであるのに無い、という不足の判定には記憶が必要になります。

その記憶や判定自体は元々無属性ですが、それにより煩いが起こることがあります。そして煩いを起こすもの、それが執著です。

仮に短期的な記憶すら無い場合、ゼロの錯覚は起こりえません。今あるものだけを今捉えるということになります。

あくまであるものだけをあるものとして捉えるにとどまり、ゼロの錯覚による「不足」は起こりません。

不足の判定による苦しみ

ゼロの錯覚は、不足の判定による苦しみをもたらします。

それはまさに煩い悩む元となります。

理性により不足を捉えるのであれば、単に次の理性的な行為の元となるだけですが、時にその不足の判定は、無駄な感情を起こし、無駄な苦しみを心に与えてきます。

概念の限定をせずとも「何もない」

本来「ゼロ」は、概念の限定をせずとも「何もない」という感じになります。「何もない」すら何かがあるを前提としているので、沈黙が正しいくらいの感じです。

しかしながら、対象となる「何か」が「無い」というふうに感じてしまいます。それがゼロの錯覚です。

例えば、「みかんがある」というのはある種正しくても、「みかんがない」というのは本来おかしな示し方です。

それは「みかんがある」とか「みかんがあった」ということを前提とした感想であり、本来は、みかんという概念は出ずに空白の空間であるだけです。

家族がみかんを食べている場面に出くわしたとすれば、「まだあるの?」も出てきますが、みんなが食べていたのは5時間前で、何の痕跡も残っていない場合であれば「まだあるの?」という言葉すら出てきません。

「あるかもしれない」という推測から出てきたという感じになります。

イメージをともなわない言葉だけの網

対象の概念や対象への観念が意識に介入する

本来は「何もない」はずであり、「何もない」という空白すら頭に浮かばないはずですが、対象の概念や対象への観念が意識に介入するという感じになってきます。

そうなると「無い」のに「ある」かのように機能してしまうことになります。

無いはずなのに、意識の中にはそれが入ってくるという感じになり、無いため操作できない、操作しようもない対象について、何かしらの印象を作ってしまうことになります。

そして、それについて煩いが起こってしまうという感じになっています。

「~がない」で考えるのならば、あるもの以外の全てが対象となるはず

「~がない」ということで考えると、全く考えの内にないもの、とりわけ概念すら知らないものもその空白の中に入っていなければなりません。

「全て」から、「ある」と捉えた対象を引いた全てということになりますが、「大好きだったあの人はもういない」とか「お金が無い」ということは思うわりに「同級生の誰其はもういない」とか「国庫短期証券が無い」ということはなかなか思わないわけです。

「無い」という前提による思考

次に何を選択するのかを検討する場合、多くのケースでは「無い」を前提としています。というより99%以上が「無い」を前提としているでしょう。

「何かが足りない」

そう思って何を欲するのかという思いが起こったりします。

せっかく無意識レベルで「どうありたいか」は出来上がっているのに、「無い」という前提から表面的な頭で最適なものを無理やり選ぼうとしているはずです。

これをひっくり返して「ある」という感じで前提をひっくり返した場合、見えるものが著しく変化します。換言すれば、渇望から「手に入れる」という視点で見るのではなく、既に充足というか満足した状態があるという視点で見るということです。

これは「もう十分揃っていると思い込んで我慢する」ということではありません。

「無い」という前提による思考から、「ある」という前提に立つ場合、対象の何かが「ある」と「思い込む」いうことではなく、対象物は仮止めでもよいので「もしあるとすればどのような感覚になっているか」という体感的な結果の方に意識を向けるという感じです。

そうすると「何が足りないか?」というよりも「何が障害になっているか?」という目線になるはずです。

それは現実的な障害というよりも、「何が盲点となっているか」であり、「ある」ことを前提とするとそれが露見していくという感じです。

その幸福もまた輝かせる

機能の副作用としての「ゼロ」

本来空白であるはずのものを「~が無い」というふうに捉えてしまう要因としては、ひとつは自己保存のための機能としての記憶がその中心となります。

先を予測したり、不十分なものは何かを検討する思考それ自体は生命維持のために有用な機能となりますが、それが原因となって無駄な感情が起こり、無駄な苦しみを得ることになってしまいます。

生に関する直接的な苦の回避という部分で見れば、記憶や「我という意識」、ゼロという概念は、敵対視するようなものでもなんでもありません。

ただ、「欲しいのに手に入らない」とか、「ずっとあってほしかったのにもう無い」といったような嘆きのような感情は、こうした機能の副作用により起こってしまいます。本来「ある」だけであり「~が無い」というものは成り立ち得ないはずなのに、無いことによる煩悶をもたらしてしまいます。

「~が欲しい」と思ったりする場合でも、水分や基礎的な栄養やある程度快適な気温等々、本質的に必要となるものを除いたもの、とりわけ必要のない消費物などについては、その対象の概念が入ってきてから起こったりするわけです。

「~を持たない」ということに関し、それを持たないことが異常であるかのような情報、購買意欲を駆り立てるような刺激は、現代にはたくさんありふれています。

「~を持たない」という目線自体は、その対象を知ったから起こります。その対象の概念すらなければ、欲することもありません。

そして知っても自分とは関係がないということになれば、欲することもありません。欲することもないゆえに、手に入らない苦しみも、持つことによる煩いもないわけです。

大切な何かをなくしたと思う時

大切な誰かを亡くしたとか、大切な何かが壊れてしまったというようなもの、そして、以前とは変わってしまったというような場合、つまり愛別離苦にあたるような出来事があったとしましょう。

その場合も、極端に言うとゼロの錯覚により諸行無常への怒りが起こっている、という感じになります。

その後に対象とは新しい経験をすることができないという悲しみもありますが、本来は、自分と対象との関わりだけでなく、「この私」ですら、いつかは無くなってしまうということを忘れてはなりません。

「かわいいなぁ」と思う対象がなくなったということも事実ですが、「かわいいなぁ」と思った自分もいずれ消える、という感じになります。

忘れる必要はありません。

しかしながら、想起し、悲しみという一種の怒りが生ずるということは、諸行無常という理が働く「現実」を観ずにゼロの錯覚に彷徨っているということになります。

もしゼロの錯覚が起こりながらも理を観て、理性により記憶を扱うことができたなら、「それは今のこの瞬間に、記憶により形成された状態に過ぎない」と見切ることができます。そうすると、執著による苦しみが形成されることはないでしょう。

理性により、「どうにかできることと、どうにもできないこと」の区別もつきます。

「どうにもできないことに対して執著し、無駄な苦しみを得ること」を避けることと、対象との思い出を蔑ろにすることは別物です。

理性によりゼロの錯覚を見切ると、それらは別物であるということも区別できます。

ゼロの錯覚と同化し、今以降に起こることに苦しみを増やすことはまさに無駄です。

厳密にはあるのでもないのでもない

さて、ゼロの錯覚と執著による煩いについて触れてきましたが、「ある」とか「ない」ということについてさんざん触れていたものの、哲学的に捉えると、本来厳密には「ある」のでも「ない」のでもないという感じになります。

「~がある」という判断やゼロの錯覚としての「~がない」という面から、一種の思考の罠による煩悶の構造を示してみました。しかしながら、「ある」場合でも、厳密には五感で触れることや意識で想起するにより、あると判断して捉えているというだけで、「ある」が確定しているわけではありません。

逆に「~がない」というのも、五感で触れたり意識で想起することにより、ないと判断して捉えているというだけで、「ない」が確定しているわけではありません。

また、必要なものは全て揃っているからこそ、今この瞬間に生きているという事実を忘れてはなりません。

そういう系でよく出てくるのは「足るを知る」というような言葉です。しかしながら「足るを知る」というと、「必要なものは全て揃っているんだから文句を言うな」と脅されているような気分になります(これについてはまた別の投稿で触れることにしましょう)。

「ある」のも確定的ではなく、「無い」のも確定的ではないという中、受け取る働きである「心」を中心として、どのように捉えればよいのかというところが重要です。

「あるべきものがない」

その思いは煩いをもたらします。

しかしそれは思考による判定の結果です。

我慢したり、満足していると無理に思い込むという形では、心の安らぎはもたらされません。

だからといって不足を克服しようと興奮しているのもまた、煩いの範疇に入ります。

と、こうした点は、「足るを知る」を含めてまた別の機会に触れることにしましょう(→知足と空性と「充足への移動」)。

不足感や願望は「過去からの因果」という思い込み

「求不得苦」求めても得られない苦しみ

「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ

Category:philosophy 哲学

「ゼロの錯覚」への11件のフィードバック

  1. こちら富山です!
    ただいまこちらも豪雨が吹き荒れております!
    (二元中継風に)

    改めまして、ご無沙汰しております。
    僕は以前、bossu様と関わらせてもらう前からたびたびゼロの記事を熟読させていただいておりました。

    ニーチェの曙光でも一度扱われたテーマだったと思いますが、その中でも一際衝撃を受けた記事でした。

    この度、まとめとして新たな智慧と共に再び思考させていただける枠を設けていただき、大変ありがたく感謝しております。

    京都が豪雨という一言欄より、ただ時事ネタとしてこちらも便乗したかったので当日にこだわりコメントを寄せさせていただきました。

    前置きが長くなりました。
    まぁ、落語の枕のようなものだと思っていただければ。笑
    では、話を戻します。

    ーーそもそも想起しなければ、全ては流れ去るだけ。

    本当にもし律儀にゼロを様々なものを人に適用すれば、見るもの、頭の中の全てが瞬時にゼロで埋め尽くされて処理しきれなくて失神、もしくは発狂するだろうと思います。

    ただ切り離すことはできない以上、記憶というのは時には本当に厄介ですよね。

    パシッ!
    「痛い!!」

    ただこの状況でも、パシッ!はもう過去になりますね。
    残るのは、痛みだけですよね。

    「痛ってぇなぁ〜!叩くなよ!」
    「?」

    (この場合、一般的に危害を与えた側も似た記憶を持つからその後も成立(共有)するのでしょうね)

    しかし、叩かれたことは痛いと感じる時には既に過去、さらに過去は記憶に過ぎませんよね。
    まぁ、こうなってくると痛みのジンジンもおかしく感じてきました。
    ジンジンの場合はその後も続き、ミシンのようにババババッと継続的だからなんでしょうが。
    ただ自分が痛いと感じた時のジンジンは、既にもうないですよね。

    そうなると感情はやはり反応ありきだし、それがいわゆるbossu様のおっしゃる人それぞれの関数のような様々なものへと割り当てられたりもするのでしょうね。

    そしてゼロの不足感について。
    これも以前、bossu様が哲学テーマで触れていた「無価値」の概念に通ずるものがありますね。
    「ない(不足)」というのはやはり、「有」にどこか相対的なものとして見ているからなのでしょうね。
    沈黙がちょうどいいくらい、とおっしゃるのもそのような感じですよね。

    そして「諸行無常に対する怒り」とおっしゃった部分も僕は肌で感じていて….
    これ以前、うさぎのそぼろの手術を受けているときですが。

    結局はいつかはくたばる命を、結局はいつかはくたばる獣医さんが助けてくれようとしている。そんなことを、結局はいつかはくたばる僕が今、ただ物思いにしみじみふけっているんだよな。….と。

    特に「だからこそ!」とは続きませんでした。
    ただ、漠然とした儚さはやっぱりどこか感じましたけどね。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      ゼロの錯覚については、主に曙光の時にちらほら触れていましたが、一応分散しているものをまとめておいた方が良いだろうと思い、今回投稿するに至りました。
      さて、叩かれたことと痛みについては、涅槃寂静で少し触れていました。痛みが続くのは、皮膚の状態が今その状態であるからという形で捉えるくらいしかありません。
      しかしながら、やや西洋的になりますが、定言命法的に社会としての抑制を考えたりする場合には、「過去のものであり記憶」は、受け取り手側の捉え方の範疇となり、社会関係上は抑制されるべきものであるというような帰責の構造は残ります。
      ただ、痛みの受け取り手としては、直接的な痛み以外に憤怒などの感情によってより一層苦しみを得るか得ないか、というある種内側の領域として、流れるように取り扱うほうが心にとっては良いという感じになります。
      (すると社会上の問題も理性のみで取り扱うことができます)

  2. こんにちは、返信ありがとうございます!

    「定言命法的に社会としての抑制を〜」の、くだりについてですが。

    なるほど!
    まさしくそれは社会規律の中でも、限りなく中道に生きていくと言え代えても良さげなものですね!

    例えば、相手と喋る時も、自分がふいに目をそらしてしまうのはなぜなのか。
    理性にかなって行動を取れたのなら、自身は自身として最善の思考および、行動へと移せるものですよね。

    もちろん、対相手として起きた結末を抜きにしてもです。

    その時に理性足らずだったゆえに、その状況には明らかに見合った行動がとれず、勘違いされ断たれた関係も数々あるのです。

    こんな単純なことがなぜできないのか。
    正直、自分の行動においても振り返らねばならぬ事例が多いです。

    そして、ゼロをゼロとせず、器から必要以上に吹きこぼれ出した欲に関しては、本当に苦悩させられます。
    ついには、今の自分をわざわざ壊すことにすらなるなんて、馬鹿げているとは承知でなのですが。

    このご時世ですので、外出時もやはり情報の多さ、そしてその速さにすぐ押し潰されそうになっちゃいます。

    「目に映ったところでなんになる、それを感じた所でそもそもどうする!?こんなもの、誰が誰であろうが意味がないだろ!そんなものにいちいち煩わされるくらいならば、目なんか潰れてしまえ!!」

    と、軽はずみにも気持ちがヒステリックに。
    これではダメだと思いつつも、立て直すのに時間を費やす一方です。

    うさぎに関しても爪切り時などに暴れるときは、とにかく視覚を遮ってみるという術に似ていますね。
    僕も気持ちが昂りすぎた時は、とにかく目を瞑り「今」に集中しようとは試みますが、、、。
     
    まだまだ未熟を痛感するばかりですね。

    1. 感受することから反応が始まりますが、焦点のあて方や解釈の仕方でいかようにも変化するのが感情といった具合になっています。
      特に論理としての情報に意識が向きすぎると「こうあるべきだ」というような感情が昂ぶることがあります。
      なのでそうしたときは、身体の方に意識を向けて、肩が上がっていたり、呼吸が荒くなっていたりしていることに気づき、それを整えるという感じでやり過ごすと反応は弱まったりします。
      最も良いのはピンポイントの「今」への集中ですが、自分がどう反応しているか、とりわけ体はどのように反応しているかを客観視すると今を流しやすくなります。
      しかしながら、感情は望む方向を見つけるための指針となったり、必要に応じた反応であることもあります(怒り混じりであっても、勢いがあったほうが物事がうまく進むこともありますからね)。
      なので、その場の反応についての評価や判断よりも、「思い返して何度も苦しむことがないように」という部分が大切であると思っています。

  3. コメントありがとうございます。

    やはり、必要以上に自我の囁きには耳を傾けず「今」への一点集中することの大切さが改めて分かったように感じます。
    降り荒ぶ雨の中を、傘が水をはじくようなものですよね。

    それから「足るを知る」も考えさせていただきました。いい言葉ですね!
    生命維持として、衣食住が成り立っている環境下なら基本的にはそれが全てですもんね。

    明日どころか常に一歩先の選択に、身の危険にさらされている過酷な動植物たち以上にこの言葉は我々人間が理解する必要があるのではないかと思います。(これも自我の囁きですよね)

    そういう意味でも、「それ、煩悩という具体的な言葉で指し示してやるわ!(ビシッ)」と、人々に対して大切な呼びかけがあるのではないかと、感じました。

    ちなみに今回の記事から少し脱線しますが。
    過去の記事で知った、X JAPANのTOSHIさんの書籍「洗脳」。

    先日この本を、僕も読み終えたところです。
    正直、X JAPANはあまり知らなかったのですが、某動画サイトから当時の実態の映像も併用して「洗脳」の脅威を思い知らされました。

    僕も仲良くなった方から勧誘を受けたことがあります。
    あの独特な思想観についても、大変興味があるので、その時感じた僕の心境と合わせて、再びbossu様とお話しさせていただければ幸いです。

    1. 完全に集中すると消えるかのごとくになりますので、流れることを観察する感じが普段の生活には適しています。しかしながら、急な反応には「消えるかのごとく」くらいのほうが適しているかもしれません。
      さて、「心とは何か」に通じますが、心が汚れたり傷つくのではなく、汚れ、傷があるフィルターを通して心が受け取るというような格好になっています。
      実際の不足よりも虚像たる「不足感」をフィルターが作るような感じでしょうか。
      ということで本来内側にある汚れや傷が問題であり、それ自体は外界により形成されたものであり、ある意味自分には責任がありませんが、自分で取り除く他はないような感じになります。
      おっしゃるとおり、「降り荒ぶ雨の中を、傘が水をはじくようなもの」となります。
      「外界に働きかけねばならない」ということは、執著であり不足を生みますが、「外界に働きかけてはならない」ということもひとつの執著であり条件化です。
      不足感を消さねばならないと思うことも執著からくるものですが、一切について「不足感を消そうとする行為にあたり、執著の表れであるから何もしてはいけない」と頑なになることもまた執著からくるものとなります。
      様々な「握りしめ」を解放するような感じが理想的です。

      「洗脳」については、テーマが異なりますので、過去記事等また該当する投稿にご連絡をいただければと思います。

  4. おはようございます。
    
    案外、刺激の少ない無防備な環境下からの働きかけが厄介で、気づいた時には反射的に体がこわばったりするものですね。
    もたもたしてると思考の渦に飲み込まれてしまうので「消えるかのごとく」という的確なお言葉が誠に励みになります。

    「握りしめを解放する」という部分も、まさに以前bossu様からいただいた「金縛りの例え」にも通ずるところがあると、そう思わずにはいられませんでした。

    そして、執著を消そうとするのもまた執著….。
    欲で欲は消せぬというのが、また皮肉なものですよね。

    とはいえど、bossu様がおっしゃった

    「心が汚れたり傷つくのではなく、汚れ、傷があるフィルターを通して心が受け取っている」

    という下地の上で成り立っているという理、骨組みなる部分を先に知っておく方が手っ取り早そうですよね。

    そうすれば、様々なシチュエーションに応じた策を考える手間暇さえ最小限で済むだろうし、必要以上にあくせくする必要も無くなるのでしょうね。

    とまぁ、またコメントを寄せたわけですが、心待ちにしていた「足るを知る」の哲学テーマも同時にアップしてくださり本当にありがとうございます!

    きっと、bossu様がこれをお読みになられらっしゃる時には、僕も最新記事のテーマと睨めっこしてると思います。

    またそちらからぜひ感じたことを返信をさせていただきたいと思っておりますので、今回も目を通していただけるだけで大丈夫ですよ!
    また楽しくお話しできたら嬉しいです!

    この度も、最後までありがとうございました!

    それでは、失礼致します。

  5. はじめまして。いつも楽しくサイトを拝見させていただいております。
    このサイトとの出会いは3年ほど前でして、それからというもの、bossu様の言葉に幾度となく支えられてまいりました。本当にありがとうございます。
    今回始めてコメントを残させていただきます。

    この「ゼロ」という錯覚、あるいは「求不得苦」というものは今まさに自分が体感している苦しみです。端的に言うと恋人がほしいという気持ちが強く、中々できないことから苦しみを感じております。僕は二十代の男です。
    自分の心に注視して、bossu様の言葉を参考に対処してみて、きっと恐らく苦しみというのは小さいのかもしれませんが、感じている苦しみの比較対象がありませんで、個人的には大きいと思っています。
    また、ひょっとすると排泄欲なのかもしれませんが、しかし本能的な焦りなのか彼女を欲する気持ちが強く強くあります。
    「おおそうかそうか、おちつけおちつけ」と自分をなでてみても、動物的本能が拭い捨てられません。この本能は個人的には、言語の領域を超えた、また何らか過去の体験からの比較というものではなく、極めて自分にとって真新しいものです。
    常にゼロであり、それを今まで体感してきた状態です。そこから、抜け出したいと自分で考え得た感情と、名状できずにいる本能のダブルパンチです。
    知足と空性と「充足への移動」の記事も拝見させていただきました。「全般において満足した状態」というのはまだまだ想像できずにいるのですが、身近な「好きな食べ物を食べた」という状態を想像したりして抽象化していこうと思います。
    しかし、一方でその想像は過去に体験したことがある(あるいは似た体験がある)からこそできることなのではないかとも思ったりしました。

    長々書いてしまいました。もしかしたら勝手に「本能」などと決めつけて逃げているにすぎないのかもしれません。
    お目汚したいへん失礼いたしました。末筆ながら、これからもサイト運営、bossu様のご活躍をお祈り申し上げます。コロナウイルスにも何卒お気をつけください。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      そしていつもご愛読ありがとうございます。

      苦しみの大きさの感覚は、重要度によって変化しますし、また以前「これが人間か」で引用し触れていた「限りなき苦痛と不足」の通りとなるゆえに、同じような現象、同じような対象であっても個人差は大きいものとなりますので、特に気にされることでもないような気がします。

      発端としては本能領域になりますので、精神として思考した後の苦しみが半分、生苦の領域に入るものが半分、といった感じでしょうか。なので、「本能」と表現されてもよい事柄であると思います。

      「その想像は過去に体験したことがある(あるいは似た体験がある)からこそできることなのではないか」という部分については、体感領域として感覚を統合することで未経験のことでもある程度可能になると思います。
      (ただ、「全般において満足した状態」というものは、一般に想像されるものとは少し違う感じになると思います。「体験」という意味で言えば、非想非非想処あたりになるでしょうが、我の経験というものとは少し違う感じになっています)

      「彼女」に関して言えば、「もし彼女がいたらどのような感覚になり、どのような意志決定をし、どのような振る舞いをするか」ということを体感覚を中心として捉えてみてください。

      誇らしくふわっとした感じかもしれませんし、そんな感覚の中、街を歩くと、ふとお花屋さんに目が行くかもしれません。

      このあたりは「叶うはよし、叶いたがるは悪しし」ということになりましょう。

      普通に考えると、好きな相手にアプローチするわけでもなく、まだ姿も見えない相手を想像して欲するということに対し、「苦をもたらすだけだから、ゼロの虚像たる『恋人』を欲するなんて馬鹿らしい」ということは、現実に彼女ができて、様々な経験を経てから全てのリアルを通じてドカンと感じるのが一番だと思います。
      (なお、「現実に彼女がいると無くなる苦しみ」ということになるかもしれませんが、できたらできたで別の苦しみがあるかもしれません)

      という感じにはなりますが、現実として異性の側にも同じような思いを持っている人たちはたくさんいると思います。お互いに少しの勇気と少しの心の開きがあると、すぐに解決しそうなものであると思います。特定の相手がいるのであれば、どんどんと突き進めばいいだけですし、そうでないのなら常日頃から様々な人と話し続ければ自然と機会は生まれてきます。

      また、欲する反面、それを現実に反映させないがために抑制している部分はないかということについて意識を観察するのも良いと思います。

      とどのつまりは精神の状態にしかすぎないということが見えてくるかもしれません。

      一方的な欲にとらわれず、また、「責任」を相手に委ねることなく、自ら引き受ける器量に応じて、という感じになりますので、本能領域を含め様々な「恐怖心の解消を意図することから生ずるもの」を虚像として見切り、自然な流れを掴んでみてください。

      自然発生する衝動を単に意識で抑えようとすると、抑圧するのみとなってしまいます。それら現象の流れを観察しながら、「構造を見切ってやるぞ」という感じで、その中に飛び込んでください。
      様々な経験は様々な本質を捉えるよい機会となります。
      その中で、意識の働きを観察し、本質的な「現実」を具に観察し、安らぎに帰していただければと思います。

      1. お返事ありがとうございます。貴重な時間を取らせてしまい申し訳ない気持ちと、とても身に染みるコメントで恐縮する思いです。
        なんだかホッとしました。体感で感じ捉えられるよう、やってみようと思います。
        またコメントすることもあると思いますが、その時はよろしくお願いいたします。
        改めまして、本当にありがとうございました。

        1. 感覚をつかもうとして逆に力んでしまう場合もありますが、そんな時は力を抜くという感覚を大切してください。

          それではまた何かありましたら、何なりとコメントいただければと思います。

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