アフォリズム 871-880
- 871.やる気がない時
- 872.頑張りについて
- 873.鼻息の荒さ
- 874.自己愛の視点
- 875.証拠について
- 876.友だちの条件
- 877.「いつか」と「今」
- 878.断定の幸福論
- 879.勝手に決めた「特定の条件」
- 880.いかなる時も訪れる安穏と幸福
871.やる気がない時
やる気がない時は、「やる気がないのは何の問題もない」ということを受け入れた方がいい。やる必要がないからである。
そりゃあやる気があって、明るく楽しいというのも良いだろう。
でも、別にそうじゃないからって、どうってことはないじゃないか。
872.頑張りについて
「頑張ったらもっといける」というのは、ただの思いこみである。「頑張らなければならない」という属性を帯びているのであれば、それは原則的に誤りである。「そうしたプロセスを楽しむ時もある」というのが例外である。
873.鼻息の荒さ
頑張る「必要」はないが、鼻息が荒くなっている人を見るのは嫌いではない。
874.自己愛の視点
自己愛という言葉は語弊を生む。自己と他者を切り分けた上での自己だけを愛するというのは歪みである。本来、自己に形成された全てに対する愛が自己愛であり、それは自己の世界のすべてを含む。
875.証拠について
「証拠」といっても、それらはいつも朧気なものである。
証拠らしきものの証拠能力は、蓋然性の度合いによる程度であり、いかなるものであっても、「完全な証拠」というものは示しようがない。
876.友だちの条件
友だちになるのに条件などいらなかったはずなのに、人々は大人になるにつれてどんどんと条件をつけていく。
877.「いつか」と「今」
「いつかそうなったらいいな」と思うことについては、今すぐにそうなると良い。実際に認知しているものがどうあれ、体感は今すぐ感じられるはずである。
878.断定の幸福論
「物事を断定できるはずがない」というのが世間的な見解であるが、常に今しかない中、いつでも「今、幸せ」と断定する。
何かに対して抵抗し、押し返すというものでもない。
ただ、常に想起の必要なく「今、どうあろうが幸せ」という意識の向きを保つ。現象に対する認識など飛び越えて、「今この瞬間の幸せ」を常に断定しておく。
自我は、常に証拠、未来への確証を求めるだろう。しかし、自我が暴れようとも、体に痛みが走ろうとも常に断定する。
こうしておくと「矛盾」という思考、論理を超えることができる。
879.勝手に決めた「特定の条件」
「あの人がこうならない限り私は幸せを感じられない」という条件があるとする。
なんで?
なんで条件を満たさないと幸せを感じてはいけないの?
880.いかなる時も訪れる安穏と幸福
現実をそのまま観るようになると「怒っていても安らいでいて、幸福感に満たされている」という一見矛盾した感覚が訪れる。
「やる気がなくても、停滞しているように見えても、穏やかに流れ良く事は進み、安らかな幸せに包まれている」というような日々が訪れる。
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