アフォリズム 171-180
- 171.嘲罵の浅薄な根拠
- 172.支配のための利用としての第三者への称賛
- 173.モテの放棄と論理的思考
- 174.操作の結果としての判断基準
- 175.舞台設定と臨場感
- 176.生活から導く倫理
- 177.優しさと堕落
- 178.突き動かすもの
- 179.本気と狂気
- 180.抵抗と放棄
171.嘲罵の浅薄な根拠
己か、己の周りの生活のことくらいしか考え得ない者は、それに則さないものを嘲罵の対象とする。
その割に、対象に権威性があると、理解はできなくても押し黙る。
172.支配のための利用としての第三者への称賛
時に、第三者への称賛は、隣にいる者への間接的な圧力として利用される。すなわち隣にいる者を支配するために第三者は利用されているに過ぎないという場合がある。
つまり間接利用されているのであって、心底称賛されているというわけではない、という場合があるということになる。
173.モテの放棄と論理的思考
モテに対する思いを完全に放棄し、あらゆるモテに関するものをくだらないと思えば、まともな論理的思考にたどり着く。
174.操作の結果としての判断基準
「近年、ようやく認められてきた」というような論調をする者としては、何を見てどう判断してそうしたことを思っているのか。
実際にそうというわけではなく、そう広告されたにすぎない、ということを思うことはないのだろうか。
175.舞台設定と臨場感
学校生活というものはほとんどすべての人が経験しているということから、舞台設定を学校にするということは、それが本質的に最適であったというよりも、半分以上逃げという他ない。
176.生活から導く倫理
生活の中にも生活を超えた印象を垣間見ることはできるが、それは概ね倫理の領域であり、哲学の領域ではない。
177.優しさと堕落
相手を堕落させてしまうのであれば、それは優しさではない。
178.突き動かすもの
技巧なり要素なりを積み上げて生み出しているというのであれば、本質的にはその分野には向いていない。ただ突き動かすものによって突き動かされているというものでない限り、本質的には向いているとは言えない。
179.本気と狂気
世の中で最も恐ろしい相手は、心底本気になった者と救いようのない狂気に陥った者である。
逆に考えれば、心底本気になったり、救いようのないほどの狂気に陥った時、自分は相手にとって恐ろしい存在となる。
180.抵抗と放棄
ある観念に抵抗するということは、その観念を支えることになる。
ある相手に抵抗するということは、その相手と同じレベルにいることを支えるものとなる。
しかしながら、この抵抗を脱するためにと、それら観念や相手を受け入れるということは論理の上での誤謬である。
それらはすべて空性をもつただの観念であり、執著の対象たり得ないものとして、あらゆるものを放棄し、手放すことが望ましい。
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