ひとつの模範

私はトゥキュディデスのどこを愛するのか?私が彼をプラトンよりも深く尊敬する原因は何か?― 彼は人間と出来事のあらゆる典型的なものに、最も広範囲で最も偏見のない喜びを感じ、そしてどの典型にも、ある量のよい理性が属していることを見出す。これを、彼は発見しようと努める。彼はプラトンよりも大きな実際的な公正さを持っている。 曙光 168 前半

トゥキュディデスは「戦史(ペロポネソス戦争史)」の人ですね。「アテナイ」オタク以外は知らなくてもいい人です。

どうせ模範にするならと、優れたような人がいないか探したものですが、やはりそんな人はあまりいません。特に経営塾を開いているような人は模範の対象になりませんし、自己啓発セミナーを開いているような人はもっと対象になりません。

模範対象となるような優れた人はなかなかいませんが、そんな中でも「私に憧れ、私を模範対象としなさい」とでもいいたげな、胡散臭い人達はちらほらいたりします。そうしたものは、自尊心の欠落を埋めることを意図したような虚栄心にしか見えません。

「私に憧れなさい」という虚栄心

稀に「自分のようになって欲しい」ということで、高級車を買ったりする人がいます。これは一体どういうつもりで言っているのかが気になります。高級車に乗るのはいいですが、それと「自分に憧れろ」という感覚とは別物です。

ブラック企業のワンマン社長や虚栄心全開の二代目三代目社長に多いのですが、いくら社内の人間と言っても他人ですし、外に向かってそのような「私のようになって欲しい」的なことは言わない方がいいでしょう。

これは単に「私に憧れなさい」という虚栄心であり、「夢を与えるため」と言いながら、その手段として「憧れられるため」と言いながら単に着飾ってモテたいというだけだったりします。

そして「これは浪費ではなく、『夢を与えるため』の必要な消費だ」という言い訳をしながらカッコをつけるために浪費したりします。

言っていることがあべこべ

自己啓発に影響を受けてか、松下幸之助氏に憧れを抱いているのかはわかりませんが、本を出版したりセミナーなんかを開いたりして、ご満悦の方もいますが、矛盾だらけで話していて恥ずかしくないのか、と思う時があります。

別に恥ずかしいと言っても、「また大層なことを」というわけではなくて、言っていることがあべこべな点に気づいていないというような点です。

「人間を大事にする」と謳いながら、劣悪な労働環境を与えていたり、以前映画にもなったように、派遣社員や期間雇用社員には、会社のゴミ箱にゴミを捨てることすら許さないような人がいます。

必要とされていないものを量産して、罵声を浴びせながら営業に回らせる、という手法は、動物としてはおかしな姿です。

なぜそのようなことが必要になるのでしょうか。

それは無駄なものを、規模以上にたくさん手に入れて、それを維持管理するためにはお金が必要になるからです。

無駄だということに気づかなかった経営責任のツケです。

省エネルギーのためのシンプル化・軽量化

どうして、完全体である生命体がいないのかということを考えたことがあります。

どんな生き物よりも強靭に、最強になってしまえばいいのではないか、と考えますが、生命の種が多様なのは、おそらくそのような肉体を持ってしまえば、それを維持するのに大量のエネルギーが必要になる、ということです。

そしてそれを消化吸収するにもエネルギーが必要であり、また、酸化していくので新しいものに取り替えなければならない、という二重の労苦が待っています。

それが追いつかなくなれば、「餓死」というものが待っています。

どんな環境にも適応し、どのようなものでもエネルギーに変えることができ、また、どんな生物よりも強い力を持っている、ということになれば、それなりのエネルギー、栄養素が必要になります。

それが足りなくなり、「餓死する」という、外敵による攻撃ではないわりにいつでも潜んでいる危険性を避けるために、燃費効率を考えてシンプル化、軽量化している、という手法も、また一種の叡智でしょう。

進化と退化

ひとつの模範 曙光 168

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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