ひとつの提案

パスカルやキリスト教がいうように、われわれの自我がいつも憎むべきものであるとすれば、他のものが― 神であれ、人間であれ、自我を愛してくれるということを、われわれはどうしてそのとおりに許したり、受け入れたりすることができようか! 曙光 79 前半

何度かは触れていますが、アイツこと自我は敵ではありません。もちろんあなたの一部であり、ただ騒いでいるだけなのです。

敵視しても倒すことはできません。

バトルになるということは、同じフィールドでどちらかが勝つというようなある種対等な関係にあるはずですが、アイツとの関係においてはそういう感じではなく、次元が異なるとでも思っておいたほうが懸命です。

で、自分では嫌っているようなものを、誰か第三者が無条件で愛してくれると思うのは少し変な構造です。

「どうやら君は自分のことを嫌っているようだが、私は君が気付いていない君の魅力に惚れ込んでいる」

と、王子のような人がやってくることを切望しているフシがあります。

では、自分自身でその「王子のような人」になってみてはどうでしょうか?

誰かに言ってもらうことができたのなら

何かにすがっている人は、「自分はダメ人間だ」と思いつつも、「そんなことないよ」と誰かに言ってもらいたがっているフシがあります。

で、誰かに言ってもらうことができたのなら、自信を持てるとでも思っています。

「味方についてくれている人がいる」

ということを自信の根拠にしています。

でも、そんな素振りを見せながら、

「嘘に決まってるだろう(笑)」

と、いつか裏切られるかもしれないという恐怖心すら何処かに持っているはずです。

ということで、外に求めても永遠に安穏などは訪れないのです。

「絶対にそうであるという証明をしろ!」

おそらくアイツはこんな騒ぎをしてくるはずです。

そういうわけで「手を差し伸べる系」の義務教育的な自立支援などはあてにならないと思っています。

カウンセラーのような人が、手を差し伸べるように

「そんなことないよ。あなたはステキだよ」

みたいなことを言っても

「そんなことを言って、仕事のためだろう?」

ということになりかねないからです。

といっても、その真意はどうあれ、殴る蹴るなどの攻撃してきているわけでもないので、敵意をもつ必要はありません。

むしろ、仕事であれ何であれ、「いい人」の部類に入るはずです。

ただ、「誰かに愛をもらえないのが原因だ」という風に考えてしまうと、後々おかしな事になってしまうということです。

ミナミの帝王風に言うと

「人情ですがな」

「人情言うんやったら、ワシが寝たきりになったら下の世話もしてくれんのか?」

という感じです。

本当の「意識高い系」

ただ、何かしらの理由があって、自分を嫌っているはずです。

で、その嫌いになってしまう条件と言うのは、いわば世間で言われているスペックなどによる比較です。知らぬ間に常識のような基準が出来上がり、その正当性を容認し、その基準に自分を照らし合わせて、自分に対する優劣を評価しています。

むしろ、本当は自他共に愛に満ちているものの、それをアイツが色眼鏡で見て判断して、「条件」をつけて「条件に満たない」ということをやっているのです。

だから、自分も他人も愛するのに本当は理由などいらないのです。

だからこそ思考の上で、言葉に言葉を重ねて理詰めで何とかしようとするよりも、まずは各々が無条件に自分を愛すると良いのです。

すると、自然に慈しみの状態になります。

これが本当の「意識高い系」です。

その状態であれば無言でも大丈夫です。

同じ空間にいると、意識なんて同調しますからね。

ということで、無条件に自分を愛する「ため」に何かの条件があるということは矛盾です。

そういうわけで、幸せは加点方式ではなく、「本来100点のあなたを下に引っ張っている属性を外していく」という感じです。

何となくつかんでいただけたでしょうか?

ひとつの提案 曙光 79

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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