おお、私はこの動物を知っている!もちろんそれは二本脚で「神のように」闊歩する方がそれ自身には好まれる。― しかしそれが再び四本脚に逆もどりするなら、私にはその方が好ましい。その方が、全く比べようもないほどそれにとっては自然のままなのだ! 曙光 261
「二本脚」ということで、まずは小学校の時の絶望的な先生からご紹介していきましょう。僕が一番最初に「どうしてこの人から教わっているのだろう」と感じたエピソードです。
絶望的な先生
「二本脚だ」、と思い浮かべるのは人間ですが、鳥はみんな二本脚です。
小学生の時に「鳥の足は何本でしょうか?」と先生が言うので、「二本です」と言うと、その先生は「みんな三本だと思っているが四本なのだ」と意味不明なことを言い始めました。
それは鳥の足の指の数です。
インコと共に暮らしていたので、そんなことも知っています。
先生は、質問の仕方自体を間違えたわけですが、間違いを認めませんでした。
「僕はどうしてこの人から教わっているのだろう」と、開いた口が塞がらない、ということを小学生の時にすでに経験してしまいました。そうした出来事はこのエピソード以外にもたくさんあります(餅なんかにつく青カビ)。
それはこの時のみならず、「モノノカンガエカタ」で触れたように、絶望的な先生にはたくさん出会いました。
体育会系に同調しないだけで「和を乱している」と判断する上司もいました。労働組合に入らないだけで精神がおかしいと扱われたこともありました。
しかし、おかしいのは相手です。その時も思っていましたが、今でも自分のほうが正しいと思っています。
「わかってもらわねば」と思うのは執着
しかし、この正しさは他人にわかってもらう必要はありません。わかってもらってもいいですが、何が何でも相手に「わかってもらわねば」と思うのは執着です。
相手に自分の正しさを理解されなくても一向に問題ありません。
そして同時に相手のことをわからなければならないというのも一種の執着となりえます。
せっかく教えてくれているのだから、理解しなければというのはいいですが、不要な知識を学び、学んだのだから活かさねばならないと思ってしまうのも一つの執着となることがあります。
接待の仕方
たまに親切で、接待の仕方のようなことを教えてくれる人がいますが、その方には申し訳ないとは思いつつも、そのようなことはしないので、不要な知識です。
以前に、大学で先生と飲みに行った後、カラオケに誘われるということがありました。
その時に、演歌を聞かされたわけですが、僕は演歌が嫌いです。
演歌を熱唱されるのはいいですが、その場にいた女子が手拍子のようなものをしています。周りのお手を頂戴した先生は有頂天になり、照れくさそうに鼻の下を伸ばしながら歌い上げていました。
その瞬間に非常に類の無いような寒気がしました。
お伊達に浮かれている人間はそこそこに醜いものです。
この時、「自分は一生浮かれる側にもおだてる側にもなるまい」と、確信めいたものを感じました。
なぜこのように崇高なのだろう! 曙光 261
真面目すぎる接待術について
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