なぜ、人をいじめてはいけないのか

なぜ、人をいじめてはいけないのか、いじめがいけない理由について、その根本理由を考察していきます。善悪に関することについて触れる場合、社会的な議論の上では、即時的に「悪」「排除すべきもの」という前提が議論されることなく置かれ、また、「いじめ」などは「悪であること」と、当然のこととして、それに関する社会学的考察、自分たちが取るべき立場が定められたりもします。

「いじめはいけないことです」

「いじめがダメなことは決まっています」

「いじめは悪い。絶対悪だ」

社会の中では何の根拠もなしにそんな事が説かれることがあります。

いじめがいけない理由を根拠付けるには善悪基準が必要になり、その善悪基準には正当性が必要になります。そして現代で最も利用されている正当性が民主主義的正当性です。

しかしながら、社会における最も致命的な欠陥は民主主義というシステムです。心理的誘導や集団圧力による投票の操作という側面もありますし、前提として「善悪」のような形而上学的領域は多数決で決定するような領域ではないのです。何かの基準を決める時に多数決という方式が取られますが「多数決」というものは一切信用できるようなものではなく、また、「気分だけ」で意見していることすら気づかせないというトリックまで含まれています。

そのことを「知っている」という「知識人的」な思い込みが、さらに人を盲目とさせていることに一切気づいていません。

たとえば「マスコミの情報は嘘ばっかりだ」という意見を発することによって、「自分はいつ何時も騙されていない」という安心感を持って人に意見したりします。その一言を発することによって、「自分は深く考えている」と思い込まさせられている、という可能性すら排除しているという感じです。

そのような意見を100個集めても、心理的誘導の結果は否めませんし、意見の数が多ければ正しいというようなことでもないのです。

インターネット上で賛否がある、というものがあっても、意見の数は多少なりとあっても、どれも気分的なものにしか過ぎません。もっと正確にいうと、気分というよりそれまでに培った「信念」に沿えば賛成、沿わなければ「反対」、そして、その信念は他人の意見を聞くことしかしてこなかった結果でもあり、また、何かの新しい他人の意見が入ればすぐにぐらついたりします。

なぜ、人を殺してはいけないか

なぜ、人をいじめてはいけないのか

という命題にまともに答えたのは大勢いるように見えて、確認できるのは実は数人しかいません。

「まともに」というのは、それ以外にもたくさんこの疑問に答えようとした人はいますが、一応の詳しい論証はしていても、前提が具体的すぎたりしていて「途中からしか考えていない」という形になっています。ということで、厳密な論証にはなっていないという感じです。

たとえば、「聖書の記述は絶対的である」というところから考えた結果、という類がわかりやすいでしょう。聖書は絶対であり、「その解釈はいかなるものか」という形になっているということで前提の正当性については飛ばしているという感じで論証不足ということになります。

宗教ありきの哲学も結構ですが、善悪のような領域においては、それを考慮しない場合の考えも示さねばなりません。

物事、特に形而上学的領域は極限まで抽象度を上げてから考え出さねばなりません。しかし、それをすると具体性が欠けるため結局収拾がつかなくなる、という本末転倒が待っていたりもします。

しかし、それだからといって何の根拠も無しに、いじめが即時的に「悪」というのはお粗末としか言いようがありません。

そもそも「善悪」という概念自体に疑いをかけねばならないはずですが、それには一切触れていなかったりするからです。

「いじめはいけないこと」といわなければ「嫌われる」とか、「『いじめはいけないことではない』ということで、あなたをいじめます」となるのが本能的に恐ろしいというだけではないでしょうか。

「なぜ、人をいじめてはいけないのか?」

「人をいじめてはいけない理由は何か?」

への回答は

「どんな立派そうに見える答えを示しても嘘になる」

これが本来の答え、としか言いようがありません。

密かに含まれるニュアンス

さて、感が良い人であれば、この「なぜ、人をいじめてはいけないのか」という問いには、「他人への強制」の要素が含まれていることにすぐに気づくでしょう。

「なぜ、人をいじめてはいけないのか」という倫理的・道徳的な絶対基準のようなものをもって、自分以外の人を説得しようとする意図が見え隠れするという感じです。

問うべきは「なぜ、人にいじめられてはいけないのか」であるべきということは、あまり語られていません。

「なぜ、人をいじめてはいけないのか」という場合は、あくまで「社会」目線、つまり鳥瞰図的に「社会はこうあるべきだ」という目線での議論になっています。

いじめを肯定すれば社会が成り立たないという構造

そこで、出されるのはカントの定言命法のような「全員がそれをやってしまったら社会は成り立たない」というような公式です。

しかし、それを根拠にいじめを「いけないこと」とするには早急すぎます。

社会の中の絶対的な善悪基準を把握し、人への説得材料とするといういとではない形で、いじめという概念をとらえなければなりません。

結局、すべてを受け取るのは「自分」という間口しかないのに、社会全体は関係ないからです。

「人をいじめていはいけない理由」の対象として、社会全体の中の善悪基準を見出し、それを自分以外の他者への説得材料としたいという願いを前提としています。

そこには、勝手に社会というものが個人よりも上位であり、他人への説得として社会的な善悪基準をもって「あなたも従ってもらわなければ困ります」という構図になっています。

こうした社会的な善悪基準・倫理基準は、「いじめをするならみんなであなたをいじめますよ」、という抑止力的構造であって、結局「なぜなのか」という問いには答えていません。しかも、「あなたがするならわたしたちもあなたにします」という構図になっていて自己矛盾になっていることに気づいていません。

「あなたがするなら私たち、もしくは私たちが委任した代表にしてもらいます」ということは「いじめ」が「悪」ということになんの答えも示していないどころか、「いじめ」を肯定していることになります。

社会の中のルール作り、つまり他人への説得材料としては「いじめを肯定すれば社会が成り立たないという構造」をもって「防ぐべきもの」として取り扱うのは勝手ですが、それはいじめの善悪については何の答えも示していないということになります。

なぜ、人にいじめられてはいけないのか

さて、「幸福になりたくないものはいない」ということは、言い返すことができません。

なぜ、人をいじめてはいけないのかという問いではなく、「なぜ、人にいじめられてはいけないのか」という問いには論証の必要なく即時的に答えが用意されています。それは「幸福になりたくないものはいない」というものです。

身体的な苦痛や精神的苦痛といった即時的な不快信号はそのまま「苦しみ」であり、苦しみによって幸福ではなくなってしまいます。

といっても、もし仮に意識の中で「いじめられることに幸福を覚える」という関数を持つのなら、自らすすんで「いじめられる」ということを選ぶでしょう。数は少ないと思いますが、それがその人の幸福パターンなので構造上そうなってしまいます。

ただ、一般的な「いじめ」ではなく、いじめを「不快感を感じる他者からの攻撃」というものに置き換えた場合、それを排除するのは本能的であり、不幸から幸福への恒常性というふうに捉えることはできます。

いじめられてはいけない、というより、「何びとにも決められない」領域であり、語りうる領域ではないのかもしれません。

いじめのパラドクス

テレビ番組のご意見係のように「いじめは悲しいことです」、「いじめなんて許せません」などと言うつもりは毛頭ありません。

人をいじめてはいけない理由についての問いへの答えは「どんな答えも嘘」だからです。嘘、というより論理的に穴だらけで「気分」的なもの、もしくは一切根拠のない道徳の戯言で、「仏様とはご先祖様のことです」という意味不明な命題と同じ類だからということになります。

ただ、だからといって「いじめはよくないことではない」、ということを根拠に能動的にいじめをするかというと、そうでもありません。

行動の選択権は自分にあります。そして、いじめには「他者」が必要になってきます。さらに「自分の幸福感」の条件を「他者に委ねている」ということにもなります。

いじめには対象が必要であり、自分ひとりで完結できるものではありません。いじめる側といじめられる側がいてこそ成り立ちます。

以前、自分が相手をコントロールしているという「力に酔っている」という構図は、自分が他人の状態に「コントロール」されているというパラドクス、というような事を書きましたが、まさしくそのことがいじめに関する「なぜ人をいじめてはいけないのか?」という問いへの答えへの一つの指針となります。

矛盾とパラドクス

すなわち、いじめることによって、快感を得ようとする構図は、いじめる対象の状態によって、自分の気分が変動してしまうことを「いじめる対象」に委ねている、ということになります。

これはいじめているつもりが、相手に気分の舵取りをさせているのと同じことになります。快感を得ることによって、目指しているのは「幸福な状態」のはずである。そうなると、いじめることは、非常に非効率であり、本末転倒を招くはずです。

いじめる側が「いじめられる側」に対して、相手を蔑視した上で、自分が状態をコントロールしていると思っていたら、自分が相手の状態に気分を依存させているということになっているという感じです。

善悪すら、他人をコントロールするための「説得材料」としての機能ぐらいしか持ち得ません。そして善悪の判断は、宗教的定義であったり、民主主義的議会での決定であったりしますが、それらは思想や主義による相対的尺度であり、すべて「絶対性」は持ち得ません。

つまり、ある側面ある曖昧な定義の前提を「認める」ならば機能しうるという感じですが、認めるか認めないかの決定権は「自分」にしかないからです。

「相手がその前提を『認めている』ならば、相手を説得しうるが、前提を『認める決定権』は相手にしかない」という感じになります。しかしその前提は、すべて「説得」することは可能でも、絶対的に覆せるという性質は持ち得ません。

いじめに善悪はない

「いじめに善悪はない」というと、すぐに「そんなことを言う人はゆるせない」という意見が飛び交いそうだが「気分じゃなく、きちんと論証しようね」と言い返すでしょう。

ただ、同語反復になりますが、いじめられて不快な思いをしていることは、不快なのだから即時的に不快であるはずです。

不快を解消したいというのは、本能的で純粋に知性的です。本能的な恒常性維持機能であるため、そこには思考が入り込む余地がありません。

だからといって、相手に「悪だからやめなさい」というのは一切論理性がありません。善悪基準を持ち出すには、善悪の定義も必要になってきますが、論証不足の宗教・民主主義的な相対的な基準の善悪は持ち出せても、絶対基準の善悪は論証し得ないからです。

そういうわけで、いじめについての取扱は「悪だから」ではなく「不快だから」というのなら非常にわかりやすいのではないでしょうか。

「不快だからやめてください」、という「説得」というのも一つの恒常性的可能性だが、他にも方法としてはたくさんあります。その空間から抜け出すというのも一つの方法になりますし、「意味付けを変える」というのも一つの手です。

目指すべきは「自己の不快の解消」だけであって、社会全体の「大前提」の決定ではありません。

いじめについては、いくら考えても「自分はやってもいいけど、自分がやられるのはダメ(本能的に拒絶、こっちは本能的なので決められない)」

これが純粋な答え、としか言い様がありません。

「なぜ、人をいじめてはいけないのか」とか「いじめがいけない理由、ダメな理由」という面で関して言えばそれくらいしか言いようがないのです。

ただ、いじめに関しては、「やってもいいけど」であって「やる」ということではありません。

もし、人をいじめてはいけない理由があるとすれば、それはいじめる対象の反応に自分の感情がコントロールされてしまい、自分の感情、ひいては安心感や幸福感に「外界の状況」という条件を増やしてしまうことです。

きちんと言った人、知ってる限りでは本当に数人しかいないけどねー

人をいじめてはいけない理由に通じる、「人を殺してはいけない理由」については、「不殺生戒と人を殺してはいけない理由」をご参照ください。

また、いじめへの対応と対策については、「君主論から考えるいじめへの対応と対策」などをご参照ください。

Category:philosophy 哲学

「なぜ、人をいじめてはいけないのか」への2件のフィードバック

  1. ずっといじめはなんで悪いんだろう
    と考えていました。
    知恵袋で質問して回答者と議論を交わしたこともありました。そして最近それが殺人にも当てはまることに気がついてさらに考えてこんでいました。
    しかしこの記事で幸福になることを前提として考えることで答えが見えて来ると理解しました。
    ありがとうございました。

    1. そうですか。それはよかったです。
      相手の状態が自分の心の状態に影響を与えるという構造は、それが良いとされていることであれ、悪いとされていることであれ、苦しみの原因になります。
      だから世の中の善悪の基準を前提とするのではなく、外部の何かの状態を条件にしてしまうことこそが自らの心にマイナスであるという感じで考えてみてください。

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