どの程度まで同情を警戒しなければならないか

同情は、それが実際に苦しみを作り出すかぎり― そしてこれがここでわれわれのただひとつの視点であるが―、およそ無害な感動に迷いこむことと同じように、ひとつの弱さである。同情はこの世の苦しみを増大させる。 曙光 134 序

人に影響を受けてしまうということは、この心の状態に関して他人が条件となっており、また「人に影響を受けたくない」という抵抗感も、人からの影響を示していることになります。

そして人を励ますという場面においても、根底に同情があり、「○○だから大丈夫だ」と慰めてしまった場合、「○○」についての執着が増してしまうというケースがよくあります。

相手の思いを理解するという共感くらいまでならいいですが、同情して相手と同じような感情を味わってしまうと、感情の落ち着きばかりを優先し、理性的な対処ができなくなってしまいます。

同情的慰めが生む執著

同情的慰めが生む執著についてですが、例えば、彼氏に振られて「かわいいから大丈夫」と慰められれば、「かわいい」というものを条件にし、「大丈夫、君は頭がいいから」と慰められれば、「なんでオレは頭がいいはずなのにこんな扱いなんだ!」と怒りの種になってしまうというような感じです。

本当は何の条件もいらないのに、安心や自信のようなものを「○○だから大丈夫」と人から説得されたり自己説得を行ったりしている場合が多いような印象があります。

一応相手への思いやりとして「可愛いから大丈夫ですよ」などと言ったりしてみた場合、相手はその場は落ち着いてくれるかもしれませんが追々「可愛い」に執着してしまうようになります。

励ましといえば励ましで、思いやりからの言葉のようなものになるものの、執着の対象を作ったり、それを強化してしまうことになりかねません。

人に言って説得するという構造

また、以前に結構触れていましたが、基本的に「信じる」ということは不可能であり、「信じている」ということは数%疑っているということになります。

字面を見ても「人に言う」というような感じです。その「人」には自分も他人も含まれているでしょう。

何某か「説得」のような要素が含まれているはずです。

純度100%受け入れていれば、「信じている」とかではなく「当たり前」で議論にすらならないはずです。事実当然のことは信じる必要がありません。

ということで「自信」というものもよくわからない虚構なのですが、感覚として自信や誇りのようなものを常に置いておくのは正解です。

ただ、そこに条件は必要ありません。

好きな人を好きになる

ところが社会の中で活動していると、やれランキングだ、資格がどうの学歴がどうの、年収がどうの、「○○アワード受賞」といった謎の相対的な尺度がたくさんあります。

しかしながら次のようなことを考えてみましょう。

あなたにも好きな音楽、曲が1つか2つはあると思います。

その音楽の好き嫌いをオリコンランキングで決めているでしょうか?

おそらく決めていませんね。

「1位だから好き」とか「圏外だから嫌い」という尺度は通用しないはずです。

例えば人を好きになるのに、そうした客観的なランキングは関係ありません。好きな人を好きになるのです。

「稼ぎがいい」から好きというのは後付で、「美人だから好き」というのも後付です。

これらはアタリマエのことのはずですが、アイツ的な目線で、人の恐怖心を煽った方が「物が売れる」ということで、雑誌の特集や結婚相談所の広告などで、どんどん歪んだ思考パターンを植え付けられ、感情も鈍感になっているはずです。

そうして自分が人を見定めだすと、自分もそういう目線で見定められているのではないかと疑心暗鬼になります。

結局、今のあなたが、世界をどう見ているかによって、現実が変わり、その状態に応じた現実が展開しているというだけの話です。

同情と共感

どの程度まで同情を警戒しなければならないか 曙光 134

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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