それに、モデルと言っても

本人にとっては自己顕示欲を始めとする自尊心獲得ゲームとなり、他者にとっては欲を刺激するものとして捉えられがちなモデル等々の職業ですが、経済社会の中ではどうあがいてもそれに携わる人が繰り上がり式などで役割を担うことになります。

世間が求めていないものは需給が成り立たないということになるため、少なからず求めに応じて役割を担う人が必要になってきます。

モデルに限らずですが、そうした属性を持つものを構成する人たちの是非を問うよりも、その人達の心のあり方がどうあるかのほうが大切です。なので、モデルならモデルとして良き心の持ち主であれということになります。

モテへの利用

世の一流と二流を分けるものの最たるものは、「それを利用してモテようとしているか否か」という部分です。

それがモデルであれ、音楽であれ、お笑いであれ、「どうやら世間的には人気があるようだが何となく好きになれない」という場合、おそらくその方々には「その特性や技能をもってモテようとしている」という要素が含まれているはずです。

また、経済的要素があると若干落ちてしまうというものがあります。しかしながら、売名、広告宣伝というもののような概念を含めたとすれば、収益に関する面は否が応でも少なからずついてまわる属性なので、一切の経済的要素を排除するというのはほぼ不可能に近いということになります。

そんな中、それでも「何だか違う」という思いが強まる時、その時のその対象をよくよく観察すると「子供目線で観るべきところを大人目線で大人の解釈をしている」とか、「そうは語るものの、きっとそういう思いを経験したことは無いのだろう」というような要素があったりします。もちろんそれも推測の域ですが、空気感とのミスマッチ等々、非言語的情報の隠そうにも隠せないという感じになります。

外国人の大人がドラえもんを大人目線で解釈すると「機械猫」みたいな捉え方をしてしまうという感じです。

華と視覚的情報

そういえば、何度かプロのモデルの方とお会いしたりステージに立たれている現場を拝見したことがありますが、やはり発散している気の質と量がプロという感じでした。華と表現される生命エネルギーの質と量が、やはり素人のそれとは全く異なるものなんだなぁという印象です。

ということで、いわば傍目から見れば視覚的情報だけで「それっぽくなればいい」という感じで捉えられがちではあるものの、プロの領域となると非言語領域での質が大きく差を生むという感じで、「憧れる人たち」からは見落とされがちになるのでしょう。

もちろん発端としては、「それをモテに利用する」というところからでもいいですが、プロになろうと思ったり、その中でも一流になろうとすると、おそらくすぐに限界がやってきてしまいます。モテに利用している程度では限界が知れているという感じです。

ただ、そうした華についてですが、根本には気力というものが関わっています。それを他人からの注目や称賛によって獲得していた人は、注目されなくなると再度獲得しようと執著に苦しむことになります。そして、それすら叶わなくなると、うつ状態になってしまいます。一度もてはやされて戦線離脱した人が精神疾患になるというのは至るところで見聞きする話です。そういうわけで、一種の毒素を含んでいるという感じもなります。

そうした気の問題は「他人からもらう」ということをしなくても、心を静めることで何とでもなったりします。中途半端に知識をつけて気力をなんとかしようとすると妄想が加速することにもなるので、ややこしい話はさておいて山伏のように山を歩くというのがが一番手っ取り早いでしょう。

Category:笑う月

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