この世界のささやかな全て

思い返せば病中の頃、次のようなことを考えたことがあります。

「何気ない挨拶であっても、ただ視線を合わすことであっても、それが100回連続で起こらなければ気が狂うのかもしれない。無視されるという事が1000回連続で起こればおそらくこの世界に絶望するだろう。そして10000回目を迎えた時、僕はこの世界と縁を切っているだろう」

これは裏を返せば、日常当たり前のように起こり、当たり前に繰り返されているほんのささやかなことであっても、「絶望」が閾値に達するのを防いでいるということになるのではないか、ということです。

例えば会う人会う人に無視されたとしましょう。それが一人目、つまり1回ならば「なんだこの野郎」くらいの怒りで済むかもしれません。しかしそれが2回、3回と続けばどんどん気がおかしくなってくるのではないでしょうか。

本質的には虚像である自尊心や他者からの承認、そして尊厳ですが、意識的、無意識的問わず、他人によって支えられていると思っている状態にあっては、その尊厳の確認ができずにいることは、人を破滅に導いていくのではないかということです。

そう考えると、道を歩いていてすれ違いざまに一瞬顔を合わせるという何気ない現象ひとつでも、洞察すると精神の安定や「尊厳」のためには一役買っているのではないかということです。

しかし一方で、「そんなことまで気にしなくてはならないのか」ということにもなります。

わざわざそうして他人を通じて自分の存在を確認しないと発狂してしまうようにできているこの精神はポンコツではないのか、ということです。そういう意味でも一切行苦ということになります。

ささやかなひとこと

最近では特にありませんが、以前は僕もたまに「事業を手放そうかなぁ」と思う時がありました。

概してお客の態度の豹変があったりして、自分の持っている社会に対する目的と合致しなくなったような瞬間です。

といっても分かりにくいと思うので少し換言すると、僕はより良い世の中になって欲しいと思って仕事をしている面がありますが、相手が急に気分で豹変し、横暴になってくることがあります。そんな時、せっかくの自分の能力を移り気のあるロクでもない人間に貸してしまったという無念が出てくるという感じです。

そのような感じで「虚しいなぁ」と思う時がありました。

仮にそんな事が100回連続で起こってしまえば、ほぼ確実に僕は事業を畳むことになるでしょう。

といっても、契約は万全にしていますし、お金の回収も確実に行っています。

でも、気分としては「虚しいなぁ」という感じです。それに苛まれることはありませんが、虚しいことには変わりがないのでやる気はなくなっていきます。

そんなことを友人に話してみると、「え?完璧ちゃう?」というようなことを返してきました。その後に「完璧やわ」を連呼してきたりもしました。

すると僕も「そんなもんかなぁ」という気分になってきます。

まあ実際に友人の言う通り、仕事として契約や代金の回収は我ながら確かに完璧なのです。

そんな感じの出来事を思い出すことがあります。

ということで、その友人や家族などのおかげで事業が続いているという部分もあります。もちろん、合間合間家で「うまい飯を食った」というようなささやかな出来事も事業が続いている要因として考えることもできます。

そんな感じで考えると絶妙なバランスで諸条件が揃っているからこそ、今があるという感じになります。

「この人達が周りにいてくれて本当に良かった」

そんなことを毎日思っています。

連続が中断されるということ

さて、そんな感じで連続してふとした嫌なことが続くと、本当に嫌になってきます。それがどこかで止まるから、なんとかやっていけているという感じのことを思う人も多いのではないでしょうか。

特に珍しいことではないので、当たり前のようになっているようなことが、当たり前に起こらなくなった時はもちろん、会う人会う人に連続100回無視され続けたらどうなるでしょうか?

そんな時、コンビニに行って「いらっしゃいませ」と顔を見て声をかけてもらえるだけで嬉しくなるのではないでしょうか。

正確に何回目で発狂するということを示すことは構造上できないと思いますが、おそらく様々な部分で「連続何回目かに発狂する」という設定値があるはずです。

連続何回目なのかとか、間に時間を挟めばある程度許容値が上がるとかそうした感じになっているとは思いますが、いくら心が折れない人でも、テレアポで10000回連続断られたら虚しくなるはずです。

人によっては「それでも給料が出るならいいじゃないか」という人もいるでしょう。

ただそれでもそれが1億回続いたら「自分は毎日何をしているんだろう?」と哲学的にならざるを得ないのではないかと思います。

そういうわけで、先の友人との会話の件で言えば、お金はしっかりもらったりしましたが「何だか虚しいなぁ」というような気分になったわけです。

まあそうしたものはわかりやすいですが、そのようなことでなくとも、ほんのささやかなことであろうと、何かしら限界までの間で中断されていることで何とか発狂せずにいられるのではないかという感じです。

「ありがとう」や「感謝」

自己啓発や宗教においては、特に理由も説明せず「ありがとう」を言おうとか、全てに感謝しろとかそんなことを盲目的に説いたりしています。

「ありがとう」を連呼することで幸せな気分になるとか、「ありがとうということでそうした現象が起こる」とか、そうした感じでよく利用されていますが、当時の僕のような疑心暗鬼真っ只中で哲学的思考をする人にとっては、戯言にしか聞こえません。

まあ、そうした言葉を使うと、そうした目線で世界を見渡すことになり、また同時にそうした現象が本当に起こるので、間違いだとは言いませんが、そんなことを説く人たちは、ほとんど受け売りであり、また、感覚で話しているので哲学的思考・論理的思考をする人たちには全く通じなかったりします。

あまりに裏付けとしての理論を説くと、その言葉にとらわれてしまうので、厳密に定義はしないほうがいいですが、少なからず「わかりやすい作為」や「わかりやすい不作為」以外にもささやかな全てが、今の自分を成り立たせていることくらいは何となく理解できるはずです。

「別にありがとうなんて言うほどじゃないじゃないか」

というような、ほんの小さな出来事や対象の存在であっても、そのささやかさに応じて、ほんの少しの影響かもしれませんが自分が発狂せずに、絶望せずに生きていられる要因になっているという感じです。

そして、それは人間に限ったことではありません。

いくら「雑草だ」といったところで、植物が一切いなくなれば、すぐに人間は死んでしまいます。どれくらいの植物がいればいいのかはっきりはわかりませんが、目の前の植物もそんな「一切の植物」のうちの一員であることは変わりありません。

いくら蚊であっても、一回ちょっと刺されたくらいなら「この肌の感覚を通じて自分の存在を確認できる出来事」として貢献している要素もあります。

朝にカラスがガーガー鳴いていていたとして、その声を聞いて「うるさいなぁ」と思うのもこの心なら、「その声を聞けて生きていることが実感できる」ということを思うのもこの心です。

世の中では愛というと「何かをしてくれる」とか「何かをせずにいてくれる」という面に関して、対象が人間に限定されていたり、わかりやすい「出来事」としてのみ捉えられたりしています。

愛を感じるようなこと、そして「感謝するような対象や出来事」が、あまりにわかりやすい出来事だけに限定されているのです。

しかしよくよく洞察してみると、それは人間だけでなく、そんなわかりやすい出来事だけでなく、本当にささやかな全てが今の自分を成り立たせているということになります。

そう考えると、この世界のささやかな全てに、何となく感謝ができるはずです。

存在理由がないと嘆く前に

世の中には、自分には存在理由がないとか、迷惑しかかけていないというようなことを思う人がいます。

存在理由などは考えたところでありませんから、厳密に定義できないと前に進めないというのはナンセンスです。

だいたい理由などを考えたところで、結局「〇〇のため」ということになります。そしてそこははっきりと定義できないからこそ、古来から人類は宗教の妄言で埋めようとしてきたわけです。神の完全を示すためとか、魂の向上の為とかね。

さて、それについては今回は置いておいて、そんな中自分以外の全てが自分を成り立たせているように、自分も誰かを成り立たせているのです。

ということで、自分もどこかで「他人の発狂イベントのカウント」に入っていたり「連続の中断」に参加しているのです。

そういうわけで、ただ呼びかけられて返事をするだけでも誰かの発狂や絶望を止めていたりもするわけです。

道端の草が「この世界のささやかな全て」の一員だったように、誰しもがその一員であるということです。だから嘆く必要はありません。

といっても、この心は基本的に自分を通してしか世界を見ることができませんし、外界はこの心の内側で捉えた世界でしかありません。

そういうわけで、外に感謝しようが全て自分の内側、外に責任を感じようが全て自分の内側なのです。外界に些細な自分、つまりアイツこと自我が影響を与えているとしても、そのアイツが影響を与えた世界も全て己の内側にあるのです。

自分を含めたこの世界のささやかな全てに、全幅の愛と感謝を感じその感覚を広げてみましょう。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ