「いつかやる」の「いつか」が来るための勇気ということで、極めて簡単でゆるいお話をしていこうと思います。
世の中では「いつかやる」と言っている人は、「いつまで経ってもやらない」という感じで取り扱われています。
また自分自身のこととして、「いつかはやるぞ」と思っていてもなかなかそれが現実的に進まなかったというようなこともあります。
なぜでしょうか?
「いつかやる」と思っているということは、一応やりたいこととして設定されているようなことになります。
それでも現実には歩みは進みません。
なぜですか?
そしてどのようにすれば「いつかやる」の「いつか」は到来するのでしょうか?
というような点について触れていきます。
コンディションとタイミング待ち
「いつかやりたいなぁ」と思っていることは、一応本当にやりたいと思っていることです。しかし、なかなか現実には、そのやりたいことが叶いません。
それにはいくつか原因があります。
ひとつは、コンディションの波とタイミング待ちという癖です。
「絶好調になったらやろう」とか「時間ができたらやろう」とか「時間や金銭の余裕ができたらやろう」というような、タイミング待ちが基本形になっており、同時に体調や周りの環境は常に変化するので、現実的な行動を起こすか否かはコンディションの波に左右されやすくなるというような感じの構造になっているからです。
今、コンディションが悪くても、少し天気の良い日なら少しコンディションがマシです。ということで、「タイミング待ち」をしてしまう癖があります。
「今日はあまり勇気がなくても、明日ならもう少し勇気が出るかもしれない」と思ったりもします。しかしその保証はありませんし、明日に本当にもう少し勇気が出たとしても、「さらに明日ならもっと勇気が出るかもしれない」などと思ってしまったりもするわけです。
そんなことをしていると、本来のベストな状態、チャンスをどんどん逃してしまいます。
どんな時でも少しは勇気が必要
さて、極端にうつ状態になってしまうと、すべてのことが疑心暗鬼になります。また普通のことを普通に言うことも、普通のことを普通に行動することもなかなかできません。
そのような極端なうつ状態でなくても、ある程度元気な人であっても、何かの行動を起こす時は、少しは勇気を必要とします。
プロポーズや起業のような大きな勇気を必要とするようなことでなくても、勇気を必要とします。
例えば、僕は電話が苦手です(少し前に触れました「欠点から導く知恵」)。基本的に電話に出ることができません。電話に出るという行為に勇気を要します。出るだけでもそうなのに、営業電話をかけるなどというようなことは、腹痛を予約するようなものです。
その他、入ったことのないお店に入るということも勇気を必要とします。どんな人がいるのかわかりませんし、「買うの?買わないの?」というような圧力をかけてくる人がいる可能性が少しでもあるのならば、その人の圧力に負けないようにと勇気を必要としてしまいます。
病中全盛期の頃は「支払ったかどうかという証拠の問題」によりコンビニにすら買い物に行けませんでした。
また、仮に店員さんがお釣りの金額を間違えた時に、「きちんと相手にその旨を伝えられるだろうか?」というようなことも考えたりしていました。つまり、アクシデントが発生した時に言うべきことを言えるか、というような問題まであったわけです。やはり勇気が要ります。
しかしながらうつ状態の時はその勇気がありません。なので外に出ることができません。
その状態の人に対して、病院ですら「う○このでかい人」がいます。
店にしても病院にしても「電話をかけることも、足を運ぶことも、かなり少ない勇気を字のごとく振り絞ったかもしれない」というような想像ができない、というのは、いただけません。
まあ相手は、う○こがでかいので、致し方ありません。
でもやはり、そんな「う○このでかい人」がいる可能性があるのであれば勇気が必要になります。
勇気がありません。
どうすれば良いのでしょうか?
勇気の貯金
そこでその勇気についての解決策ですが、極めて単純です。
勇気の貯金です。
行動を起こせない、「いつかやる」と思っていても、そのいつかがやって来ないという時は、勇気が枯渇しています。
それは自らの消極的な考えに汚染された結果かもしれませんし、周りの誰かから勇気を奪われ尽くした結果かもしれません。
ひとまず勇気が足りません。枯れています。
プロポーズや起業となると相当の勇気が必要です。うつ状態ではないにしても、それらを決断して行動する場合は、相当の勇気が要ります。ということで、それらに踏み切れない場合は、勇気が枯れているとまではいきませんが、不足しています。
世の中では「勇気は不要」ということが囁かれたりします。
しかしそれは「う○このでかい人間」の意見です。根本的に腹が強いので、「勇気なんて要るか?」などと言ってしまったりしているだけです。
では、どうやって勇気を貯めていくのか、ということになりますが、極めて簡単です。
「勇気」
という言葉をたくさん口にしてください。口に出すのが少し恥ずかしい場合は、心の中でその言葉を繰り返してください。
勇気がなくても構いません。馬鹿らしくても構いません。
ただ行為として、勇気という言葉をつぶやくということは、どのような心理状況でも可能であるはずです。
実際に口にするのがいいですが、心の中でつぶやいても構いません。
もちろん言葉として言った方が、勇気の貯金のスピードは高まります。
何回くらいつぶやくのがいいかという点ですが、それはその人の今の状態によります。
ひとまず1000回くらいはつぶやきましょう。できれば何万回もつぶやいてください。もちろん断続的で構いません。1日のうちで1000回でもいいですし、数日に分けて合計1000回というのでも構いません。
ただ、あまりに期間が空くと閾値まで達する前に萎んでしまうことがありますので、ある程度短い期間で到達する方が良いと思います。
同じ言葉ばかりでもいいですが、他に「大丈夫」や「いける」などの言葉を組み合わせて多方向から貯金する形でも良いかもしれません。
単語をつぶやいて勇気を貯めている間、勇気を奪っていくような人に勇気を強奪されることがあります。自分自身の思考によっても奪われることがあります。
「あなたはいつ動き出すのですか?」
「あなたはいつまでもいつまでも何をしているのですか?」
というような脅迫ですね。
そんな時は、「う○こがでかいですねぇ」と心の中でつぶやいてください。
上品にいきたい場合は「お通じがたくましいのですね」とでも言ってみましょう。
これは、勇気の強奪に対するガードにもなりますし、主語がない分「自分自身への宣言」にもなります。
「勇気」+「『いつかやる』の対象」
さて、さらに「勇気」に加えて、「いつかやる」と思っていることを、簡単な単語で1000回くらいつぶやきましょう。
そうなると勇気が貯まってきた頃に、物事がどんどん進むようになります。
例えば「不用品の処分をして身軽になりたい」と思っていてもなかなか手が付かないということがあります。
それは、自分の買い物の失敗を再度確認したり、物を見ることによって嫌な思い出を思い返したくないと思っていたり、良い思い出への執着が残っていたり、というような点が潜んでいます。
ということで、そうした「買い物の失敗の確認」や「思い出の想起」に対して勇気が足りないわけです。
なので「勇気」を貯めておいて、それにプラスして「処分」や「断捨離」等々をつぶやきましょう。
勇気のコストカットとしての「成功の概念」
勇気というものは、自他ともに消極的な言葉をかけられたり、がっかりした顔、優越感に浸った顔をされたりすると、消費されてしまうことがあります。
もちろんそれを超えるほど勇気の貯金をすれば良いのですが、そうすると効率が悪くなります。ということでコストカットの方も重要です。
そういえば昔はよく「bossu君、経営者の夢は?」などとよく冷やかされました。
「ふん。いつかやるなんて言ってるやつは、どうせやらないんだ。そのいつかは永久に来ないよ」
などという言葉もかけられました。
しかしながら、おかげさまで既にどの職歴よりも長く「経営者」を続けています。残念でしたね。
さてさて、勇気のコストカットについてです。
これは「成功の概念」を次のように捉えることで、圧倒的な勇気の消費抑制を叶えることができます。
余の辞書に失敗の文字はない
失敗という概念はひとつの妄想です。月並みですが、エジソンの例が有名ですね。「適していない素材を見つけただけで、失敗など一度もしたことがない」ということです。
つまり、「余の辞書に失敗の文字はない」というようなことになります。
こうした成功と失敗について頭では理解しつつも
「そうは言われてもなぁ」
と大半の人は思っています。
が、それは基準を世の中に合わせすぎているからです。
世を見渡した結果として「見積もりが厳しすぎる」ということになります。
これを回避するのは単純です。
ひとつは、世の中の基準は一切考慮しないということになります。
そして、全てを「成功/失敗」の二元論で捉えずに、全てを「軽い成功」「まあまあ成功」「大成功」くらいに分類するということにすると、論理上も「余の辞書に失敗の文字はない」ということになります。別にさらに細かく分類しても問題はありません。
例えば、コンビニに買い物に行けなかった僕を例とすると、それまで外出が恐ろしく、家から一歩も出なかったとしましょう。
玄関まで行けば「まあまあ成功」です。
玄関まですら行けなくても、「勇気」という言葉を一回でもつぶやいたなら「軽い成功」です。
「勇気」という言葉を一回もつぶやかなくても、「つぶやこうかなぁ」と思ったり、そうしたことを思い出したら「ごく軽い成功」です。
もちろん、実際にコンビニに行けたら「大成功」です。
「ふん。そんなことくらいで成功なんて…」
と思う人もいるかもしれませんが、例えば、交通事故で全身がボロボロ、意識不明の重体だった人が、意識が戻って目を開けただけで喜ぶというのはおかしいでしょうか?
それを成功と捉えて何が悪いのでしょうか?
どこの誰と、どこの何と比較しているのでしょうか?
その比較の基準、正当性はどこから来ているのでしょうか?
今のその人の状態は、その人にしかわかりません。
何かが進んだのだから成功です。
ふとした時にチャンスをつかめるようになる
ある程度勇気の貯金が貯まってくると、体が「ふっ」と前に出るようになります。勝手にそうなります。
何かしらの抵抗が起こりそうなことに対して、体が少しだけ前のめりになります。
そうなると、誰かから何かの誘いが来たときに「いや、いいわ」と、断っていたようなシーンにおいて、少し考えたり、「いこうか」と勝手に言葉が出てきたりするようになります。
外に出ようと玄関に立った時に生じる硬直を感じた時、その硬直が解けるような感じで、体がふっと前に出たりします。
実際に言葉が自然に浮かんでくることがあります。そして一歩踏み出せたりします。
「あと一歩」という時には、また「勇気」とか「大丈夫」という言葉を数回つぶやくと、その抵抗を押し切ることができたりもします。
「いつかやる」と思っていながらもタイミングが合わないというようなことについて、タイミングが合う確率がグンと上がります。
そして普段から勇気の貯金が貯まっていると、様々なチャンスを掴むことになります。
チャンスが来た時に掴めるようになるという感じです。
それはあくまでチャンスであり、その後どのような結果が出るかはわかりません。
ただ、掴まないと何も進みません。俗に言う失敗もありませんが、成功もありません。数字でいうとゼロです。
マイナスの出来事であっても、別のマイナスをかけるとプラスになることがあります。しかし0の場合はずっと0です。
しかしながら進めないのは勇気が不足しているからというだけです。人格の問題ではありません。かつて何かで消費しすぎて回復すらままならないほどになっているというだけです。
なので、チャンスを掴めないとか進めないという時でも「勇気がまだ貯まりきってないんだな」と思うのが正しいという感じになります。
どんどん勇気を貯めていきましょう。
ただ単にひたすら「勇気」とつぶやいて貯めていくだけです。
愛と勇気
ただ、10万回くらいつぶやくと、勇気の塊になってしまい、呂布や織田信長のようになってしまうかもしれません。
そうなるとバランスが崩れ、ただう○こがでかいだけ人間になってしまうことがあります。
「勇気が溢れて道行く見ず知らずのお姉さんに裸体を晒してしまった」
というのでは話になりません。相手が困りますからね。
そうなった時は、同時に慈悲の心も育んでください。慈悲の感覚がよくわからない場合は、俗に言う「愛の心」を育む感じです。これも単純で「愛」とつぶやくだけです。
愛と勇気です。結果的にアンパンマンですね。
しかし、基本的には勇気の方が先です。でないと、愛の観念から自己犠牲に走ってしまいますからね。勇気がないと断れないですから。
愛にしても自分を含めるというか、先に自分に愛を注がねばなりません。他の人はその次です。
その前提で愛の方を先に置くというのならばいいですが、他者愛だけが先立ってしまうと自己犠牲に陥ってしまいます。勇気が不足して他者愛だけになるとそうなります。
自己愛だけが育まれた場合、自己保存、危険回避の事ばかり考えて何も進まなくなるかもしれません。
自己愛と他者愛が同時に育まれたとしても、勇気がなければあまり言動として現れにくくなります。
なので基本的には、勇気、自己愛、他者愛の順が正解です。
ただ、勇気と自己愛だけになると「勇気が溢れて道行く見ず知らずのお姉さんに裸体を晒してしまった」というようなことになりかねません。なので愛は統合された愛に照準を合わせておくに越したことはありません。
勇気は基本的に自分に向くものです。対象が自分になります。
ただ、「愛」という言葉を対象別に具体化していくと、自と他になります。なので、愛という言葉そのものはその両方を含む抽象化された概念になりますが、どうしても一般認識では他者への愛に偏りがちです。
なので、あくまで対象としての自他が統合されたものとして先に捉えておいたほうが無難です。これは慈悲にしても同様です。
「やるか、やらないか」と「勇気」
ということで、「いつかやる」の「いつか」が来るための「勇気」の貯金について触れてみました。
しかしながら「いつかやる」と言ったことを実際にやるかやらないかは、さほど問題ではありません。やってもいいですしやらなくても構いません。
「いつかやる」と思ったことは、ある時点で「いつかやる」と思ったことです。その時の思考、その時のコンディションが正しかったかどうかはわかりません。
その時点よりさらに様々な情報を得たはずですし、ある程度コンディションが良くなった時にもう一度同じようなことを思うのかはまた別問題です。
その時にはベストであった発想も、今となってはベストであるかどうかはわかりません。
しかしながら、自らが動きたい時に動けるようなったり、チャンスが来た時にそれを掴めるようになるということは、どう考えても良いことです。
ということで、やるかやらないかは別として、勇気だけはどんどん貯めていきましょう。
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