ある人にとっての「面白い」が、ある人にとっては「面白くない」のは、なぜなのかという点についてフロイト的にでも触れていきましょう。
世間では、あることを面白いと思う人がいる一方、そのことを面白くないと判断する人たちもいて、両者の中で軋轢が生まれたりもします。その様子自体が若干面白いのですが、無駄な争いですし、「この心」として怨憎会苦を得ないためにも、その構造を理解しておいたほうが良いのではないかということを思いました。
笑いの要素は、緊張の緩和や間や特異性など多岐にわたりますが、重要な要素として「抑圧の解放」という要素があります。
こうした点について考察することは少し野暮ったい気もしますが、精神分析の祖ジークムント・フロイトも真剣に研究をしていたくらいなので、あえて少し触れてみようと思いました。といっても構造としては結構シンプルです。
なお、今回は笑いを中心として考察してみますが、面白いか面白くないかというのは笑いを呼び起こすものだけではなく、芸術による感情の動きをもたらすもの全てに通じています。
笑いの要素としての抑圧の解放
それはアンビバレンツやコンフリクト等々から起こる抑圧された部分の解放という要素が笑いを起こすという点です。
まあ単純には心理的葛藤によって閉じ込められた部分が解放される時、面白さを感じるということになります。
もっとわかりやすく表現すると、本音と建前です。
建前によって閉じ込められた部分が、刺激によって解放された時、安堵とともに笑いが起こります。
安堵と笑いという意味では緊張の緩和と同じような類型になりますが、緊張の緩和とは構成員の関係性の状態が異なるので、少し様子は異なっています。でも基本は同じです。
些細な我慢とアンビバレンツ
なぜ毒舌系の話が笑いを呼ぶのか、という面は、日常の些細な我慢があるからです。
自分のほうがモテたいのに、およそ不格好な人がモテていたとしましょう。そうなると不服を感じます。
しかし、その不服を伝えたところで、自分のほうが不格好に見えてしまうので言えません。
そうしてちやほやされるのは自分の方であるはずで、自分は努力をしているのに、そうでもないような人が評価を受けているなんておかしいといった具合です。
で、その評価されている人が失態を起こしたりすると笑ったりするわけです。いわゆる「ざまあみろ」の世界です。
そんな感じで、多少不服に思っていながらも、不服さを表に出すと軋轢が生まれたりもしますし、周りから不格好なように判断されてしまうことを恐れたりします。
本音と「こんな事を考えているとバレたら怒られる」
そんな感じで、本音と「こんな事を考えているとバレたら怒られるかもしれないし、周りからは嫌われるかもしれない」という葛藤があるわけです。
また、好きという気持ちと嫌いという気持ちが同時に起こることもあります。
「大切にしたい」という気持ちと「鬱陶しい」という気持ちが混在するような感じのときもあるでしょう。
でも表現としては一つしか選べない時がほとんどです。
大切にしたいけど鬱陶しすぎて拒絶してしまった場合、「大切にしたい」という気持ちから罪悪感が生まれ、逆に鬱陶しいながらも大切にしたいという気持ちを優先して相手に合わせた場合、「鬱陶しい」という気持ちが抑圧されます。
これがアンビバレンツ(両価感情)そして、その一方の抑圧というやつです。
そして抑圧の解放が笑いになるという部分から考えれば、閉じ込められた「こんな事を考えている」という部分に対して受容が起こると笑いになるわけです。それは無意識に保持している緊張の緩和でもあります。
一方的に語られる形で緊張を与えられて緩和があると笑いが起こるということではなく、無意識の緊張が「私もそうした点に不服を感じています。だからあなたと同じですし、あなたは正しい」といったような受容によって緩和するという感じです。
男女で異なる笑いのポイントは抑圧されている部分の差
笑いの要素としての「抑圧の解放」に着眼すると、男女の笑いのポイントの差の奥にあるものが見えてきます。
それは単純に、抑圧されているものの違いであり、主に社会からの要請によって制限されているパターンの違いです。
「強くあらねばならない、責任感を持たねばならない」という要請を強く感じている人にとっては、責任感のない人たちを非難するような話に共感し、笑いが起こります。
「アホのマネ」を笑ってしまうのは、アホなのに許されていることに対する不服の解放という側面があるという感じになります。
あくまで自作自演の虚像でありながらも、そんな社会からの圧力、強い要請を感じていない人にとっては、その「アホのマネ」の何が面白いのかという感じになります。
本当は上司を殴りたいほど嫌いだが、家族を養うためにと歯を食いしばっているという感じであればあるほど、そうしたものに対して笑いが起こるはずです。
それに対して、「何が面白いのかわからない」というのは、そうしたタイプの我慢がないか、もしくは少ないからです。
逆に「それは本当の優しさではなく、ポイント稼ぎですよ。いい女アピールですよ」的な話については、そうした状況を経験した人しか面白く感じません。
「すごーい、女子力高ーい」という言葉は、相手を潰すための言葉だという場合もあります。しかし、周りにいる男性はその事に気づいていなかったりもします。
「そう言ってやりたいが、言ってしまうのも野暮ったく、適当に流しておいた」という経験があればあるほど、笑いの爆発力は強いわけです。
時代によって変化する要請と抑圧
人間で構成された社会において、社会から求められていることは、犯罪の抑制などの普遍的な部分もありながらも、時代とともに変化していきます。
そうして時代によって変化する要請に応じる形で、抑圧される感情も変化していきます。
僕の中では笑いの最高傑作は「VISUALBUM」であり、時代を超えた普遍性を持つ部分もあると思っていますが、その全体像としての面白さは、その時代を生きた人たちでないと共感できないのかもしれません。また、もしかすると外国人なら笑わないかもしれません。
ただ、直接的な描写だけで捉えるのではなく、一度抽象化して身の周りに具体化して適用することができれば、その構造に面白さを感じることができるのかもしれません。僕はあの作品における「抽象化した場合に見える部分」に芸術性すら感じたりもします。
ネタの中心となる人物に対する評価
笑いの表現はその時代を表現している部分があります。
僕たちが20歳くらいの時、ある有名占い師がものまねのネタにされていました。
それを見て僕や同級生たちは笑ったのですが、なぜ面白いのかということを真剣に考えた時、「その占い師が偉そうで鬱陶しいからだ」ということを思ったりしました。
ご商売柄、断定して威圧的に言ったほうが相手は安心するということから来ているのかわかりませんが、「霊感商法まがいの胡散臭い占い師ごときが、何を偉そうに物を言っているのか」という感覚が若者ながらあったわけです。
で、そうした感覚がある中、その占い師がネタにされていることを通じて僕たちの抑圧は解放されたという感じです。
人生で一番の爆笑
思い返してみると、人生で一番爆笑したのは、友人のお母さんが友人宅で「南無〇〇〇〇〇」と「お勤め」をしている中、それにアンチな友人のお父さんが、頭をビンタした瞬間でした。
「なんか変だなぁ。頭おかしいんじゃないのか。この人大丈夫か?」と思っていながらも、「思想信条の自由を肯定する」という社会的なあるべき姿に抑圧されていた感情がそこで爆発的に解放されたわけです。
と、こんなことで笑っているということをアナウンスすると、一部の人達は僕を白い目で見るでしょう。
そうした「白い目で見られる」ということで抑圧がされていたわけです。
関連付けの大まかな完了と条件反射
結構有名ですが、「20歳から35歳までの男性が笑うような笑いを目指せ」ということが語られたりします。
そこで考えてみたいのが、なぜ20歳未満はダメで、35歳超えもダメなのかという点です。
「20歳までの間」に関しては、主に特異性だけで笑ったり、抑圧が十代レベルだからだという程度でしょう。いけないわけではありませんが、少し洗練さにかけてしまうという感じだと思います。
35歳超えというポイントに関しては、抑圧のパターンがほぼ網羅され、後は惰性であり、新しい時代の抑圧を反映することはなくといった部分があるからではないでしょうか。
すなわち、時代ごとの抑圧を反映せず、それまでの間のパターンで関連付けが大まかに完了し、後は条件反射だけになるからという感じです。
いくらでも考えることができるような点ですが、概ねそんな感じかなぁと思っています。
僕もまあ既に抑圧の解放という要素ではなく、条件反射的に笑ってしまうという感じになっています。
ジェネレーションギャップは社会の要請からくる抑圧の変化
そんな感じなので、ジェネレーションギャップというものも、社会の要請からくる抑圧の変化というところが大きいのではないでしょうか。
好景気でスッと入ったあまりできない上司が、就職氷河期をくぐり抜けた精鋭よりも偉そうに振る舞っているという様子に対する抑圧は、その時代を生きた人特有という感じだったりもしますし、バブル崩壊で「お父さんの威厳がなくなった」という経験は、特定の年代の人達特有だったりもするでしょう。
昔はよくて今は制限されていることとか、昔はダメで今は許容されていることはたくさんあります。
インターネットの普及等々で環境も変化していますし、様々な方法論も変化しています。
それら変化に応じて、社会から求められている「あるべき姿」は様子を変えています。
だから抑圧されるものも変化しているはずです。
普遍的な笑いとしての最大公約数的な抑圧の解放は必然的に低レベルになる
では、普遍的な笑いとしての抑圧の解放、世代や国を超えた笑いとは何かを考えた場合、そうした最大公約数的な抑圧の解放は必然的に低レベルになります。
海外に行った時によく感じましたが、異なる文化で過ごしてきた外国人と共に笑えるようなことなど、小学生レベルの下ネタくらいです。「他人さんがいる前で、平気な顔で屁をこくな」といった感じで、きっとそれは基本的にどこの国でも制限されていることだからだと思います。
まあそんな感じなので、ある人にとっての「面白い」が、ある人にとっては「面白くない」のは、解釈のあり方といった洞察のレベルというようなものもありながら、抑圧されているものの種類の違いという要素も大きいという感じです。
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