「自己逃避。」

バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように、自分自身に対して短気であり、陰鬱であり彼らの行なうすべての店で逸走する馬に似ていて、そればかりでなく、自分自身の創作から、短い血管をほとんど破裂させそうな喜びと情熱だけを獲得し、その後でそれだけ一層冬のような寂莫と悲観とを獲得するような、あの知的な痙攣の人間たち、― 彼らはどのようにして自己の内面で我慢できようか!彼らは「自分の外」のものに同化することを渇望する。 曙光 549 前半

今回も例のごとく

「バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように」

と言われてピンとくる人はほとんどいないでしょう。

ちなみに「寂莫」は「せきばく」で「ひっそりとして寂しいさま」という感じです。一般的には「寂寞」と書くようですが、曙光のままにしました。

「バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように」と言われても誰かわからない、という感覚は、

非体育会系である僕たちからすると

「例えばイチローのように」とか「全盛期の落合のように」

と言われる時も同じです。

名前だけでなく、ある程度の全体像を知らないとわからないですからね。

そう言えば

「まるでボルトやな」

と言われてさっぱりわからなかったことがありました。

その当時のオリンピックで活躍したウサイン・ボルト氏のことのようですが、

「?」となって調べて知ったくらいです。

テレビによる常識も僕のようなタイプの人にとっては常識ではないということも知っておきましょう。

自己逃避と自己嫌悪

さてさて、自己逃避です。自己逃避は自己嫌悪と同じような雰囲気がありますが、自らを責めるような自己評価の中で、その部分に目を向けずにいることが自己逃避、その部分に目を向けて嫌悪感を感じているのが自己嫌悪というような感じになります。

ということで自己逃避は、気づいていながらも目を背けいわば現実に目を背けながら居直っているという感じです。引きこもったり、逆にどこかに後ろめたさを感じながら「リア充」を気取っているのがせいぜいでしょう。引用中の「彼らは『自分の外』のものに同化することを渇望する」という感じです。ただ、いずれにしてもある種の非力さの自己認識、己の無力感や己への嫌悪感は錯覚です。

自力本願と他力本願

さて、世の中では自力本願と他力本願の対立のようなものがあります。

長男と末っ子の争いのようなもので自分で本願を叶えるのか、それとも自分でやろうとせずに任せるのかというような分類ですが、どちらもまだまだ具体的すぎます。

自分が叶えるというのも違いますし、自分以外が叶えてくれるというのも違うという感じです。

いずれ全部自力でやったと思っても、実はそうではなかったということに気付きますし、誰かに依存していればそれで万事オッケーというわけでもないのにも気付くはずです。

だいたい自力本願というのはアイツの騒ぎだったりしますし、他力本願というときには、何か人格神的なものが想起され、そうした人間のようででもそれを超越した何かに「叶えてもらう」という構造になっています。

その両方を超えた感じでつかむといいのですが、そうなるとアイツの範疇を超えます。

「自分」が念じれば、というのも違いますし、「他人に任せておけば」というのも違うという感じです。

自分がやっているように思うこともストーリーとして「そう見える」という感じで、他人任せにしているつもりでも「他人」がやってくれているというふうに「見える」というだけです。

「他力本願だ」といいつつも、「ここで行動しては全て委ねたことにならず疑っていることになっているから『何もしてはいけない』」とアイツの餌食になることがあります。

根本的に「何かが世話をしてくれる」と思って「他力」を設定すること自体が分離です。

自分と何かを切り離していないと、「他力」にすがることはできません。

理想の出会い

ところで考えてみたいのですが、理想の出会いを果たすため、お見合いパーティのようなものに行ったとしましょう。

理想の出会いを叶え、理想のパートナーとの充実ライフを望んで、ということで行ったとしましょう。

で、「パーティに参加する」ということは、自力で選んで行動を起こしたと考えられますが、そこにどんな人が参加するかは自分では何もしていないはずです。

何かのスペック基準の寄せ集めだったとしても、顔や性格などは自分では選定していないはずです。

つまり、「参加する」といったそれっぽい行動は「自発的」に行ったということになりますが、その後の展開に関しては「自分では何もしていない」ということになります。

ところが、結果的に最良のパートナーが見つかった時に、アイツは思うはずです。

「おしゃれに気をかけ、話し方入門も読み、お見合いパーティに参加した『から』成功したのだ」

と言った具合に。

でも、全体を俯瞰してみてみると、不確定要素がありすぎます。

スケジュールにイレギュラーが入るかもしれない、その会場まで無事に行けるかわからない、といったところから、どんな人が会場に来て、どんなコンディションで、どのような席順で、どのような話題になりというところも不確定です。

いくら考えても事前にはわかりません。事後的に解釈することはできますが、事前には想像の域を超えることはないのです。

同じ人でも時期的なコンディションによって、応対はバラバラだったりします。

普段は優しい人が、仕事の関係でその日はイライラしていたり、普段は気弱な人が、前日にプロレスを観に行った影響でパワフルになっているということもあるのです。

だからコンディションを含めた全要素を考えてみると不確定要素があまりにも多く、頭で考えた「成功の要素」など、地球に対しての米粒くらいにしか影響を与えていないと考えることもできます。

しかしながら一方で、自分の中で「そうしよう」という意図と納得と言うか「許容」していないと、そもそものスタートがありません。

他人に引っ張られ、提案されても拒絶することもできるのです。

だから、自分の力だけでも他人の力だけでもありません。

そんなものを飛び越えたところに因果関係があるのです。

「自己逃避。」  曙光 549

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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