醜くみえる

適度は自分自身を美しいと思っている。過度なものの眼にとって適度が下品に、平凡に、したがって醜いものにみえるということは、適度の責任ではない。 曙光 361

これは、ウェーイがサラリーマンを見て「ダサい」という時の光景を思い浮かべていただければわかりやすいと思います。

僕も、昔は着飾ることをしていましたが、今では本当に何の意味もないと思っています。

スーツやネクタイですらお下がりです。消耗の激しいシャツだけは買うことにしていますが、ベルトも同じベルトを12年くらい使っています。

スーツやネクタイは、着なくてもいいといえば着なくてもいいと思っていますが、ネクタイ自体が好きなので、ネクタイをするためにスーツを着るようなものです。

現代版の袈裟

最近では、「現代版の袈裟」というくらいに、同じ服を何度も修復して着ています。ちなみにこれを書いている今も、17歳位の時に友人から1000円で買った上着を着ています(ちなみにまだ英詞の曲ばかりだった時の10-FEETのNAOKI氏のサイン入りです)。

買い直そうと思えば何百着でも買えるのですが、高校生の時のジャージを修復不可能になるほどまで愛用していた時のように、すべての衣服を大切に扱っています。

元々袈裟(けさ)は糞掃衣と呼ばれ、動物のフンの掃除用に使っていたボロ布を無理やり服にしたというようなもので、決して織物屋に特注で作らせたようなものではありませんでした。

これを現代で考えた場合、坊主の服が洋服よりも高い高級品であることはなんだか違和感を覚えます。

2500年前当時は布が貴重品だったのでしょうが、現代ではありふれています。ということで、病気になったり傷口が化膿したりという場合はその治療も面倒で人に手間をかける事になりかねないことをふまえ、衛生面などを検討すればわざわざ変な努力をして糞掃衣を作らずに、他人のお古かフリーマーケットで「タダでお持ち帰りください」と書かれているような服を着るくらいで袈裟です。

ということで、現代の似非坊主のように、人から宗教代をぼったくるために権威付けしたくて「高級品」を着るくらいなら、誰かのお古を大事に着こなしましょう(修行者であり、袈裟を気取るならね)。

一回くらいは着飾ってみてもいい

世の中にはファッションコーディネーターといった類の人たちがいます。

また百貨店などの販売員さんも同じように服を選んでくれます。

着飾る事自体は、意味が無いのですが、一度も着飾ったことがない場合は、一度くらい着飾ってみてもいいのではないか、ということを思うことがあります。

なぜなら、少し世界の見え方が変わるかもしれないからです。

そして、その上で着飾ることの虚しさを感じてみるというのもいいのではないでしょうか。

ニーチェの引用文の感覚を生で感じるためには、適度と過度を両方経験してみるというのも一つの手です。

ある程度着飾ると、周りの反応は変わるでしょう。

以前パーカーとスーツについて触れましたが、特に通行人の評価などその程度です。

人の評価などその程度だということがわかるかもしれません。

曙光 361


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