習慣の穿鑿

穿鑿は「せんさく」と読むそうです。穿(うが)ち、穴を掘ること、から根掘り葉掘りというような意味合いで使われるようですが、「刷新」という言葉を使って普通に生きていてはあまり使わない単語を見せて「なんだかすごい」というような関心を引き寄せようとするようなことで、「読めへんよ」と一瞬感情を沸き起こさせることが目的ですから、あまり気にしてはいけません。

「穿つ」すら漢字能力検定を受けようとしたような人しか読めないかもしれないのに、鑿なんて一級でも出てくるのでしょうか。わかりません。

習慣の穿鑿ということで「習慣」を根掘り葉掘りしてみましょう。

習慣に組み込まれたもの

習慣に組み込まれたものというのは、知らぬ間に影響されてしまいます。

他の地域ではどうか知りませんが、「合掌、いただきます」もその一例です。公立の小学校でそんなことを強制されるのだから、たまったものではありません。

「文化」だということにすれば何でもしていいわけではありません。

国語や漢字の勉強

同様に気をつけるべきなのが国語や漢字の勉強です。

そういうものを勉強するときは、必ず何か題材があります。

そして、その中で使用される文章には思想が潜んでいます。ということで、漢字の勉強をしているつもりが、勉強の題材の中に組み込まれた思想を知らぬ間に刷り込まれていることもよくあります。

仏教系の単語

特に漢字に関しては、なぜか問題がハイレベルになると仏教系の単語がよく出てきます。

仏教発祥のことわざ、四字熟語などもよく出てきますが、それを趣味としてでも、学校の試験としてでも「覚えよう」とすると、知らぬ間にそういった観念が刷り込まれていきます。

グッドバイ

同様にグッドバイも元はGod be with yeですから「神があなたと共にありますように」ですから神の存在が前提です。

それはただの概念であり、ラベリングにしか過ぎませんが、「僕はいまこれから君と一緒にいることはできないけど、神がそばにいるよ」というような意味合いが見え隠れします。それは絆ですね。絆がなければ不安、ということの表れかもしれません。アイツの仕業ですね。

習慣に潜む無意識的前提、刷り込みこそ、よくよく観察して、それがどういったものなのか捉えてみる、というのもたまにはおもしろいですよ。

習慣の穿鑿 曙光 40


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