現今の人々の哲学研究法

現今哲学的に考えるわれわれの青年たちや、女性たちや、芸術家たちは、ギリシア人が哲学から受け取ったのと正反対のものを要求するということに、私は十分気がついている。 曙光 544 序

現今(げんこん)の人々の哲学研究法ということで、活字中毒期の個人的な哲学的思索、哲学研究について触れていきましょう。

普通、哲学研究というと過去の哲学者が提唱した概念を学び、知り、それを踏まえて展開していくという風に想像されるところかもしれませんが、哲学の研究法は基本的には、日常、疑いをかけないことに対して疑問を抱くことから始まります。

もちろんそれら哲学者たちが疑問に思ったことをヒントに問いを見つけていくというのも良いですが、基本的にはお勉強することよりも先に疑問を抱くことが大切です。でないと「決まりきったことを覚えた者が優れている」というようなお役人の世界のようになってしまいます。

思索のきっかけとしての読書

10代後半から20代前半、活字中毒の時になりますが、この時は「書物から学ぼう」という姿勢ではなく、思索のきっかけとして書物を読み漁っていた感があります。

つまり哲学を筆頭に「お勉強をしよう」という感じではなく「何か考えるきっかけを見つけよう」という感じで本を読んでいたという感じになります。

そして、経典や聖書、コーランなどなど原典的なものは別として、だいたいの本は、「資本主義」や「聖書の記述」「伝統的仏教」「史実的」などなど何か前提を置いていて、それらを前提とせずゼロベースで考えているものなど皆無であり、まったくもって物足りなさを感じていました。だから逆説的ですが、たくさん読むことになったのです。

なぜ、人をいじめてはいけないのか」の前置きで少し触れていますが、話が具体的なところからしか始まっていないことがあまりにも多いのです。

哲学領域

人が決めたことに関する解説についてはそれでいいですが、哲学領域では、それは誤謬を生み出します。

そうした具体性、密かに忍んでいる「前提」が人を盲目にし、「哲学をする」のではなく「哲学を学ばせよう」という構造を作っていきます。

で、思索の対象を難しくしていくことが哲学でもなんでもなくて、人に具体的に説明しようと思うと細かなところまで論証しないと説明が伝わらないから複雑怪奇に見えるような構造を持っている、というだけだったりします。

だから哲学的領域自体は、自分の中で完結する場合には意外とシンプルだったりするものの、人に説明するとなると数々の具体性を示し、数々の具体的な矛盾についても触れていく必要があったりするのです。これは言語の限界でもあります。

抽象的な領域

抽象的な領域になると、大半が一言で説明のつくことです。

しかしながら、人に話すときには、相手にはすでに具体的なところからのレッテルがついています。

ある単語に対する印象がどのようなものかというところは各人異なっていますし、そうした単語を説明する場合にも他の単語などとの関係性から示していくので、結構言葉の意味は宙ぶらりんです。そういうわけで、それぞれの単語についてそれぞれの人が勝手にレッテルを貼っているという感じになっています。

人に説明する時には、そうした単語の意味についてなるべく齟齬を無くしていく方が相手の理解を深める事になります。

しかしながら、相手は前提を含めて具体的なところからのレッテルを貼っています。

人が貼ったレッテルを貼り替える(必要はないですが)ためには、そのレッテルについてとことんまで話していく必要が生じるという感じです。

例えば、仏教についても、悟りについても、それぞれ個々人でレッテルがあります。それはイエスキリストについても、新旧約聖書についても同様です。

で、あまり厳密な論証がされないままにという感じで、伝統的に「正しいとされていること」や「正しいと推測されていること」があります。その上でさらに民主主義を採用した上で社会的な投票で物事を決めてしまうと、本質からはどんどんと遠ざかります。

本質からは遠ざかった判断基準

「国に認められた宗教法人である大きな組織の代表が言っている」というのは何重にも社会的であり、本質からは遠ざかった判断基準です。哲学的領域に対しては何の根拠にもなりません。

各宗教の聖典とされるような書物自体についての吟味もパスしていますし、正しいか正しくないかを「国家」が判断しており、根本的に国家の判断自体を盲目的に認めているという感じになっています。

また、やれそれは偽典だとか、解釈が違うとか、史実的にはおかしいとか、そういった「客観的に正しいかどうか」という無駄な議論をする羽目になります。

で、どうしてそんなことをしようとするのかというと、「社会的」だからです。

自分と他人という分離された存在が構成員として存在する客観的な社会があって、その中で「認められなければならない」という、条件が設定されています。

この構造は、全てが錯覚です。

「自分」も「他人」も「分離」も「客観的な社会」も、「認められなければならない」というものも全てアイツによる錯覚です。

で、例えば、ブッダが同じようなことを言っていたとしましょう。

その時に、ブッダに対するレッテル、本当にブッダが言ったかどうかの確証、そんなことをアイツは設定し、求めるのです。

社会での議論など、哲学には関係ない、誰が言ったかによって属性は変わらない、人の投票行為によっても変わらない、全く関係ない、ということはこんな感じでつかんでもらえればと思います。

ちなみに本来ブッダとは目覚めた者、覚者というような意味があり、悟りし者を指すのでシッダルタ個人を指した呼称ではありません。ということで、サーリプッタもモッガラーナもカッサパもコーンダンニャもブッダです。ということで、釈迦(シャカ)やお釈迦さんなどと呼ばれることもありますが、それはそれでシャカ族(シャーキャ族)のことを指してしまうような気もするので、僕はシッダルタ(シッダールタ)と呼んでいます。

釈尊(しゃくそん)という表現も何だかカルトによく使われる「尊師」という言葉のニュアンスが入っているので避けています。そして釈迦や釈尊ということになれば、シッダルタの息子のラーフラやその他シャカ族出身の覚者たちもそれに含まれてしまいそうなので、シンプルにシッダルタと呼んでいます。

現今の人々の哲学研究法 曙光 544

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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