思想家の盲目

思想家とは、思想を持ち、時に思想を説く人ですが、あくまで思想はただの思想で、それ以上ではありません。人を狂気に導く性質を持ちながら、問題は何も解決してくれないという性質を持っています。

思想家が思想を説いたりする奥には、たいていその思想が社会にインパクトを与え、その結果自分の都合が良くなるか、自分の中の何かが満たされるかといったものが潜んでいます。

つまり思想を介して、自らを高めよう、自らを幸せにしようというような試みが垣間見れます。

以前に少し触れましたが、思想を持って、何かの活動をして、その結果社会が動いたとしても、そこで得るものは一瞬で消えます。

社会が変化した様子を認識して感じているだけのことであり、結局騒ぐアイツの要求に答えているだけのこと。そんなことに振り回されるのは馬鹿げています。

端的には、根本の目的は心の安らぎです。安らぎを得るために、社会の側、外界の方を変化させて、自分が安らごうというような構造になっています。そうした方法は非常に遠回りです。

どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか

もし思想が広がることによっても広がらないことによっても「自分の気分が変わらない」ということであればそれで良いのですが、「自分の意見が通らない」などと憤りを覚えてしまうのであれば、思想はこの心の安穏の邪魔者でしかありません。

思想家用語

ところで、思想家という人種はなぜ、思想家用語というか変な言葉を使うのでしょうか。それが哲学的思想を持つ思想家であれ、社会的思想を持つ思想家であれです。

例えば

「かくあるべし」「かく語りき」などですね。

「こうあるべき」「こう言った」で十分なところを、なぜかそういう言い回しをする人が未だにいます。

共通言語を使用することの選民思想と優越感

「そういう言い回しの本をたくさん読んだから」とか、「この業界らしいだろ?」とか、自分たちの世界だけの共通言語を使ってその他のタイプと一線を画して優越感を得たいからでしょうか(やむをえずつけた符牒)。

すいませんが、「かくかたりき」は、漢字の変換ですら「各方力」と出てしまいます。そんな言葉を飲み屋でも使っているのか、自分のお母さんと話すときにも「かくあるべしだよ!お母さん!」と言っているのか確認したいところですね。

坊主が漢字でお経を詠む

これは坊主が漢字でお経を詠むのと同じです。

だいたいシッダルタが現役だった頃を考えると、元はパーリ語等々古代のネパール地方の方言のはずであり、それがサンスクリット語、漢語という風に伝わるにつれて言語が変化していったはずです。

その本意としては、「意味がわからなければ意味は無いよ」ということです。

その中で未だに意味がわからないようにということなのか、漢文のままお経を詠んでいたりします。

思想家のような人もよくわからない国語表現をしますし、坊主に至っては雰囲気を出して権威性を高めるという意味を持ちたいのか、内容が何も伝わりもしないものを説くのです。経典は、そもそも口語が大原則のはずですし、それがメタファー的なものであったとしても、意味が伝わらねば意味はありません。

せめて思想家たるもの芸術家のように「クセ」のあるような人に思われたいのでしょうか。そうでもしなければ、本は売れない、講義に箔が付かない、テーマパークには来てもらえない、それじゃあ儲からない、というようなことなのでしょうか。

虫と書かずに蟲と書くには意味があります。爬虫類と一般的な虫の違いですから。

しかし「こうあるべき」を「かくあるべし」などと書く意味はよくわかりません。詩や小説などの文学作品での表現方法としてなら理解できますが、理屈を相手に伝えるのが主軸の世界で演出は不要ではないでしょうか。

そんなにカッコつけたい?

思想家の寛容

思想家の盲目 曙光 426

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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