墓場ビジネスと霊感商法

京都という土地柄もあってか、同級生の家が寺ということも多く、墓場ビジネス、冠婚葬祭ビシネスが盛んに語られる事が多い環境に育っています。

なんだかんだで家の電話を取ってみたら近所の寺からの「お墓のご準備はお済みですか?」という営業だったということもたまにあります。

僕としては昔から墓には否定的な印象を持っています。そして墓場ビジネスはそれほど問題視されないもののタダの霊感商法だと思っています。

そしてたまに何故かいろいろな人の墓参りに付き合うということがあります。どこかに行くついでに「お墓が近くにあるからついでにお墓参りするけどついてきてくれる?」という感じです。

それはそれでいいですが、そうしたことをしているうちにふと気付いたことがあります。

それは墓場ビジネス―墓場利権と表現したほうが良いかもしれません―が、単に暴利を貪り取られること以上にもたらす害があるということです。

その要は因果における意識の中での過去への執著が強化されるという点です。

元々原始仏教では墓は否定されていたようですが、現代では道教などの影響を受けてか、墓は当然のモノとして考えられています。

それが問題視されることはほとんどないと思いますが、僕はやはり墓を否定しておきます。

それではそんな墓場ビジネスと霊感商法の意識的ロジックや意識的因果について書いていきましょう。

先祖の供養の意味

僕は京都に生まれ育っていますし、さらに言うと日本一レベルに寺が密集しているところで過ごしてきました。

ということで、友人の実家が寺というケースも多々あり、当然にそうした友人の家族が住職であるというケースもよくあります。

そんな感じで寺に囲まれて育っているのですが、幼少期から今に至るまで「先祖の供養」の意味がよくわかりません。

退職者に対する「餞別の花束」くらいが本当の意味での供養ではないでしょうか?

そして、もし供養ということが意識の中の何か、とりわけ無念や執著を解き放ち、納得させるものであるのなら、なおさら墓などは逆効果ではないかと思っています。

さらに言うと、墓場ビジネスや冠婚葬祭ビシネス自体がやはり「ビジネス」であり、通常の経済活動の合理性すら逸脱した「霊感商法」だと思っています。

愛別離苦が未だに意識の中にあるのなら、なにか儀式的なことをして気持ちを静めましょう、というような構造になっているはずです。

ただ、それは対処療法的であり、根本原因には何の働きかけもしないまま痛み止めだけを処方し続ける医者と同じです。

で、墓を持ち、定期的に供養的なことをしているのならば、ある意味で意識の中に何かが残存しているということになります。

それは執著であり、先祖との記憶がこれからの自分を制限するものにしかならないという、意識的な因果の原因を強化するだけなのです。

墓を掃除すると良いという「柵」

たまに胡散臭い占い師などが「墓を掃除すると運気が良くなる」ということを説く場合があります。

しかしよくよく考えていただきたいのですが、自分の先祖と言っても1万年前にも先祖はいたはずです。100万年前にも先祖はいました。1億年前にも先祖はいたのです。

所詮自分が何となく知っている程度の親戚が墓に入っている程度のはずです。概ねおじいちゃんおばあちゃんか、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんくらいでしょう。

そうした「対象の限定」自体が一種の差別であり、「自分に良くしてくれた存在」でいえば、ビフィズス菌にも墓を作ってあげなくてはいけません。自分が手を洗ったことで死んでしまった掌の常在菌にもお墓を作ってあげましょう。

自分勝手なものです。

さて、ではどうしてそんなに直近の人たちの墓を掃除すると運気が良くなるのでしょうか?

それは「墓を掃除しないと先祖から罰が当たる」というようなことを脅されているからです。そしてそうした時の先祖として、自分が何となく知っている先祖や写真で見たことがある先祖の顔が浮かび、「無下にしたくない」というような意識的な観念を保持しているからです。

それはタダの執著であり、その執著を強化しているものこそが墓です。

ということは墓さえ無ければ、そうした柵(しがらみ)は根本からありません。

墓などを作るから墓場に意識が向くのです。

墓場に意識を奪われる

そう考えると理屈は簡単です。

墓などを作るから墓に意識が向き、柵が生まれます。

そして墓を掃除して運気が良くなるという場合には、そんな意識の中の「掃除しておかないとな…」という部分が短期的に静まるという感じになります。

まさに穴を掘って埋めているだけです。

目を閉じても閉じなくても、「自分の家系の墓場を思い浮かべることができる」ということなのであれば、意識の中にその墓の存在があるということです(もちろん実在しているわけではありません)。

ということはその情報の状態こそが、自分の柵になっているのです。普段は意識しなくても、無意識の奥底ではその墓の存在がほんの少し気になっているという状態ですからね。

ということで、少なからず意識に影響を与えています。

「墓参りにいかなければならない」とか「墓を掃除してあげなくてはなならない」といった一種の義務のようなものが無駄に付いているという感じです。

そうした無駄が何故生まれたか?

それは墓を所有したからです。所有しているからです。

人によってはそうした管理を金銭を支払うことによって済ませている人もいるでしょう。

確かに掃除には人件費がかかりますから、費用がかかるのはしかたありませんが、根本的にそのようなものを「所有」するからこそ煩いが増えているのです。

根本的に墓がなければ起こらなかった煩いです。

わざわざ煩いを作り出し、それに対する解決策として墓場ビジネス、冠婚葬祭ビシネスを繰り広げるのが関の山、所詮そんなものは霊感商法と同じなのです。

霊感商法と同じ

胡散臭い霊感商法や胡散臭い占い師などは明らかに胡散臭いので問題視されることがありますが、こうした墓場ビジネスは問題視されることがありません。

運営元が新興宗教でカルト認定を受けたような団体だったら問題視する割に、比較的伝統的正当性のありそうな団体が運営元ということになれば「常識の範囲」くらいに扱われたりします。

これは非常に巧妙な洗脳です。

小学生のほうが理性的です。

一度小学生に戻ったつもりで「何でなんだろう?」と考えたほうが良いでしょう。

カルト教団にしても、僕たちが小学生の頃は爆笑の対象でした。

しかし一方でそんな教団に本気でハマっていた大人たちもいたわけです。

小学生くらいの純粋な眼でもういちど墓について思いを馳せましょう。

言い訳がましい理由を聞いて心底納得できるのか考えてみてください。

冠婚葬祭ビシネスで、拝んでもらって30万円かかるとします。

小学生ならば「そんなんだったら30万円分ゲームとおやつと漫画を買う」と思うはずです。そんな小学生のほうが理性的です。

「死んだお婆ちゃんのために来てもらっているのよ」

と説得されたところで、

「え、お婆ちゃんはもう死んでるんだから意味なくない?」

と小学生位の感覚なら思うはずです。

そうした感覚のほうが正しいはずです。

霊感商法にありがちな「あなたには悪霊が憑いている。この壷を買うとその霊が祓える」というような理論も、小学生なら「じゃあその悪霊とやらを見せてみろよ」と言うはずです。

霊感商法運営側にお小遣いを持っていかれるかもしれないとなれば小学生なら必死になるはずです。

それと同じ感覚を取り戻しましょう。

重要性から考えれば家族は最大の柵

墓場を筆頭に家族との関係性は最大の柵になります。

「親も子も捨てなさい」と説かれることがあります。

その肝心要は、意識の中における自分への影響力を無くすことで世界をありのままに見れるようにという点です。

アイツこと自我は生存本能を発端としながら、何かと何かを分け隔て、さらに分け隔てたものを重要性の高いものから順に配置していきます。そしてそれに応じた意識のフレームからしか世界を見渡せなくなるのです。

ということで、柵中の柵です。全ての柵が無くなれば、世界をありのままに観ることができるようになります。

そう考えると墓を所有することは、意識の中に「家族」というものの存在感を増す象徴になり、同時にいつまでも意識の中の柵として強い影響力を与えるようになります。

生きている家族ですら…というところなのに、故人すらも意識の中に入れることは煩悩を加速させるだけになります。

なんだかんだで小説や映画のテーマでも家族との関係性がテーマになったりします。

それはそれで一つのアプローチにはなりますが、いつも思うことは「向くべき方向性」が逆なのです。

「お母さんから愛を与えられなかったから、それに準ずるような愛を与えましょう」

というのが世間のアプローチです。

それはギャンブラーに「好きなだけ遊んできなさい」と無限にギャンブルをさせるのと同じです。

「親も子も捨てなさい」

というアプローチは逆です。

「お母さんから愛を与えられなかったという意識の塊が原因であるのならば、『母』を断ち切りなさい」

ということです。

そう考えると墓は全くをもって害でしかありません。

それを電話営業するくらいなので、タダの霊感商法と考えておくべきでしょう。


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