「隣人を愛する前に愛を思い出しなさい」という謎の命令形タイトルになっています。一応新約聖書にちなんでいますが、特にそうしたものの解釈について触れてるわけではありません。
うつを治そうというようなテーマで語られる時、自分の殻に閉じこもらずに他人と接し、他人を愛しなさい的なことが言われることがあります。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」というようなやつです。
それはそれでいいのですが、単に他人を愛そうと思っても十中八九失敗に終わっているのが実情でしょう。
ということで、なぜ他人を愛そうと思う時に失敗に終わるのかというところと、それに対する対応策について書いておきます。
隣人愛「隣人を愛せよ」
さて、新約聖書によく出てくる隣人愛ですが、「隣人を愛せよ」という部分だけが際立ちすぎているフシがあります。要約されすぎて本質が逆転している良い例です。
新約聖書における解釈を普通にすれば、「神の愛を感じ、神を愛し、神を愛するように自分を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい」という感じになっているはずです。単純には「あなたの隣りにいる人を愛しなさい」という感じです。
しかしながら世間では「隣人を愛せよ」という部分が際立つことによって、あくまで自分は脇に置き利他的に自己犠牲を行うのが正しいかのような解釈がよくなされています。ブラック企業にありがちですね。
あくまで「神や自分を愛するように、あなたの隣りにいる人を愛しなさい」という感じのはずですが、「自己犠牲の上でも良いので『隣りにいる人だけ』を愛しなさい」というような感じで誤解されることが多いのが隣人愛です。
ということで、そうした隣人愛の誤謬についての指摘はこれくらいにしておいて、うつ克服にあたってよく説かれているような「人を愛しなさい」というところについて書いていきます。
表面的な意識と言動では無理がある
人を愛することができるようになると、うつ症状は改善していくというのは本当のところですが、そうしたことを見聞きして無理に人を愛そうとするとだいたい失敗します。
どのようなものでも同じですが、言語だけで意識をコントロールし、根負けさせることはなかなか難しいのです。
では本当に心の底から相手のことを好きにならないと無理なのかということになります。
で、意識上で相手のことを好きになろうと努力することで、自己欺瞞が発生し、元の目的とは裏腹により一層うつになることがあります。理論上で相手のことを愛せるだけの理由を探そうとしてもだいたい失敗に終わるという感じです。
行動の約束はできても感情の約束はできないように、いくら言語上で自己説得を行なってもほとんど意味がありません。それどころか疲れてくるので逆効果です。
で、人を愛そうとする時、「人を愛しているということはこういうことだ」というような言動を無理にしようとしているはずです。
で、うまくできないのでそれが余計にうつを加速させていきます。
そういうわけで、そうした一般論的な方法にはひとつ欠落している点があるのです。
まずは愛の情動を呼び起こせ
すごく単純なのですが、ろくでもなく相手のことを何とも思っていないような悪徳上司に「君のことは評価しているよ」と言われても、「何か裏があるのではないか?」と思うはずです。
言葉には力があり、愛のある言葉を話せばそれだけでいいという人もいますが、言葉には力はありません。
思っていることと言葉が一致しない時でも、効果がある時があります。それは相手が鈍感で、かつ、相手の持つ「言葉と情動のセット」や「世界を解釈するフレーム」が、愛と一致しているときです。
しかしそれは万人に用意されているものではありません。だから汎用性があるわけではないのです。それでうまくいく場合もありますが、いかない場合もあります。
言葉に力があるように思える場合には、相手が無意識に言葉と情動をセットにしたものを保持し、相手が言葉に力を与えているのです。
ということで、単に愛のある言葉を使ったとしても100%効果があるわけではありません。
で、そうしたものを盲信するのではなく、言葉に頼る前にまず無条件に自分の中での「愛」の体感記憶を呼び出してみましょう。
行動の結果の反応として愛を感じるのでもなく、無条件にです。
目の前の状態の臨場感を下げるために目を閉じても構いません。
その上で、「愛されたときの記憶」、「愛を感じた時の記憶」を思い出してみましょう。
それは幼き頃に、親や祖父母など、絶対に自分を守ってくれるであろう大人に囲まれて、その上でお母さんに抱っこされていた時の記憶でもいいですし、動物と一緒に暮らしたことがある人であれば、自分が愛する動物たちに顔面をなめられた時の記憶でも構いません。
パターンは異なれど何かしらそうした愛にあふれるような瞬間を経験しているはずです。
最近はそういう瞬間を経験していないとしても、記憶をかなり昔まで追っていけば何かしらは見つかるはずです。
そしてその時のビジュアル的な記憶だけでなく、体感も思い出してください。
それが思い出せたのなら、その記憶のビジュアル的な部分に関しては色彩を強め、体感であればその体感を増幅させるようにしてください。
そしてその状態をキープした上で、人と接してみましょう。
意識的な動機が、自己都合のうつの改善であったとしても、「愛のある行動をしてみよう」と思うのなら、その状態で人に何かしらの愛のある言動をしてみてください。
おそらく、人を愛することによる効能のようなものを実感するはずです。
これが本来の隣人愛のイメージです。
イエス兄さんぽく言えば、先に「天にいる父の無条件の愛」を感じ、そんな無条件の愛に対して愛を注ぎ、その愛する気持ちを自分に向け、自分に向けるように隣人に愛を注ぐという感じになります。
自己犠牲の上で人に尽くすという意味ではありませんよ。
非言語的な情報状態も同じ空間にいる者同士は同調し合うということをお忘れなく。
うつの人を家族に持つ人も、ただ心配して接するのではなく、同様に愛に溢れた状態を維持して接してみると良いでしょう。
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