道徳的な判断によって変形された衝動

ニーチェはとにかくキリスト教を筆頭に、宗教的な前提を否定することが大好きで、道徳という言葉を使う場合、そのほとんどは古代ギリシャやキリスト教的な前提をさしていて、ひたすらそれを目の敵にしています(対象はイエスではなくキリスト教会などです)。それほどまでに想像を絶するほどに西洋文化にはその影響が隅々にまで及んでいたのでしょう。

「道徳的な判断によって変形された衝動」ということで、宗教的な前提や考え方の影響が本質的な理(ことわり)の理解の邪魔をするという点についてでも書いていきましょう。

何かしらの宗教的な前提や立場的な前提があると、その枠組の中からしか世界が見えず本質を隠してしまいます。少なくとも哲学的領域においてはそうしたものを外して考えていかねばなりません。でないと、いつまで経っても本質的なポイントを見つけることはできず、ただの盲信者のようになってしまうからです。

形而上学的前提はあまり思考に影響しない

日本という国では、よくわからないままに初詣、墓参り、メリークリスマスですから、「人生」みたいなことを考えるときでも比較的原始的な思考をしやすい環境にあります。

つまりは行動として初詣などに行こうが、ディズニーランドに行くのと同じように、あくまでデートのいいわけであり、その哲学のような形而上学的前提はあまり思考に影響しません。

正月になれば神道という領域である初詣に行って、盆になると宗教化した仏教のようなものの慣習に沿って墓参りに行き(なお、原始仏教では墓は否定されています)、年末になるとキリスト教文化として「キリストにミサを捧げる」という日であるはずのクリスマスに何故か男女のロマンが繰り広げられたりしています。

そのような感覚なので、宗教的な慣習においてもただの文化的な慣習くらいに思う感覚があり、宗教的な発想は志向にあまり影響を与えてきません。

ところが、ニーチェの生きた時代、場所というのは、そういう曖昧なものではなく、「本気」が入っており、根深い習慣としてあったのでしょう。

宗教的な前提、考え方の影響が邪魔をする

何を考えるときでもその宗教的な前提、考え方の影響が邪魔をする、というようなことですが、彼がここまでしつこく「道徳的な判断」を批判ばかりするのは、そこまで何度も何度もさまざまな角度から「破壊」していかねば、話が伝わるどころか「キリスト教を否定すること」をちょっと聞いただけでも拒絶してしまう、それほどに閉鎖的だったのかもしれません。

これに近いようなことを経験したことがありますが、この手法はあまりうまくいきません。徹底的に批判して論理でねじ伏せようが、そういう思想から経験した感情の記憶というものが、その論理を再燃した感情で拒絶します。そしてその批判者を感情的に「嫌い」になって終わるだけです。

好き嫌いと理は関係ない

両親が同じ宗教に入っている、そしてその周りもそんな人たちばかりなら、まずは研究心、探究心が削がれ、そして「両親が好き」という気持ちと思想などがぶつかり合います。

しかしながら、何かを考えたり実際に感じてみるということは、何かを否定することにはならないということで、実際に試してみる、実際に考え抜いてみるということです。

すると確認できるのはどこまでか、ということが見えてきます。可能性的な限界も、認識可能な限界も、思考の限界が見えてきます。そこで、盲信というものがぐらついてきます。

こちらも否定できないが肯定もできない、あちらも否定できないし肯定もできない、「???」だらけです。

むやみに何事も盲信するのも愚かですが、逆に何事も拒絶するのも愚かです。「こういうふうに教わった」というのを人から教わったことだから信じる、逆に人から教わったことだから拒絶するというのは変な話です。

法則性というのは、好き嫌い、時代に関係なく、法則です。だからその発見が人と同じになることは当然にあります。特許や著作権や専売の権利があるなしは社会での話で、「1+1=2」は誰のものでもありません。そのような概念が人に関係なくあったのを人がラベリングして定義しただけです。

諸行無常、諸法無我、一切行苦も理へのラベリング

諸行無常諸法無我一切行苦は仏教用語といえば仏教用語ですが、別にブッダのものではありません。彼が当たり前のことを話して、彼や彼の話を聞いた人たちがラベリングしただけです。

意思の伝達にあたって、非言語の対象を言語でラベリングして伝えるしか術はないので、そういう言葉が生まれただけで、その言葉自体になにか価値があるわけではなく、ただそうなだけです。

「好きだから受け入れる」、「嫌いなので拒絶する」のは思考の世界に感情を持ち込んでいるだけで、好きであろうが嫌いであろうが、高く持ち上げたモノは手から離せば下に落下します。

重力が働いている環境下では、ということになりますが、もっと突き詰めるとそれだけではありません。実際にモノがあって、それが落ちた、ということはわかりませんが、視覚がそれを捉えて、そういうふうに感じて受け取ったというのは変わりません。自分が認めれば、認めなければという問題ではありません。

モノがあったのかは究極的には確認できません。ただ、そのような現象を認識したというようなことはひとまずぐらつきません。

頭がバグっていて斜め落ちていくように見えたのなら、斜めに落ちていく現象の解釈を受け取ったというようなことです。こういうことは確認できるはずです。

知り尽くしても意味はない

そういう話を飛び越えて、オカルト的に「こういう『意味』があった」というのは、どうにでも解釈できてしまいます。そういうことは意味がありません。

全知全能とはどういうことか、といったことにとらわれて、すべてを知る、知ろうとする必要などありません。大日如来や堕天使ルシファーのことを知り尽くしてもそのことには意味はありません。

遠くのジンバブエに住む誰かさんのおじいさんの名前を知っても仕方ないのと同じように。

道徳的な判断によって変形された衝動 曙光 38

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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