到達することのできない目標つまりは自分の力に余る目標を立てることによって、少なくとも自分の力が最高度に緊張したとき達成できるものに到達しようとすることが、何としばしば個人に勧められることだろう!しかしこれは実際それほど願わしいことなのか? 曙光 559 前半
「目標を立てよう!」ということは学校であれ、会社の営業部であれ、いつでもどこでもよく行われていることですが、目標が具体的で近いものは、それがある意味でまあまあ困難そうなものでも、設定の仕方としてはあまり推奨されるものではありません。
そうした設定は、すごく抽象的でふんわりした、やり方、なり方すらわからないくらいの設定のほうが理に適っています。
なぜなら、目の前の具体的な目標など、所詮アイツが過去からの延長線上で現状を捉えた上で、「最適である」と判断したものにしか過ぎないからです。
努力で達成できる範囲と今の方法論では不可能な範囲
そして物事を1.2倍にするくらいなら、努力でカバーしようとしてしまいます。
8時間でしていたことを10時間かければいいと思ってしまうのです。
給料25万円の人が月収30万円にしようと思えば、何かしら残業をしようとかそういうことしか思いつかないのと同じです。
では給料25万円の人が月収250万円になろうと思えば、今の方法論では不可能になります。
その瞬間から、他のルートを見ようということがスタートするのです。その瞬間にはそれが何かというのを分かっていなくても、そういうものが目につくようになり、いずれ情報が結ばれて何かを思いついたりします。
ただ、そうした数量的な目標の設定の仕方だと、「別にいいよ、特に困っていないし」というようなことが頭を掠めることになります。
まあ確かにそれほど困っていないので、特に問題はありません。
おかしなことをやっている人たち
で、だいたいおかしなことをやっているのは会社であれば上司、学校で言えば先生です。
なぜなら、自分たちの都合上で、数々の制限を設け、合理的に判断した上で「キツイ目標」を立てさせて、「目標を設定したのはお前だろう?」と後で詰めようとしているのがせいぜいというところだからです。
そうした制限の内側や外発的動機づけで、うまくいくはずはありません。
営業目標を前年対比で設定させたりするのは、完全に間違いだと言いきっていいでしょう。
アイツ騙しでブーストをかけてみる実験
昨年「アイツ騙しで強力な執着による集中を呼び出した結果」で書きましたが、僕は自分の体を使って実験をしてみました。
結果的には、現在でもその時に得たポジションにいます。まあ人によっては渇望の対象であり、嫉妬されているということなのか、その頃から会社宛にいたずら電話すら来るようになりました。
ただ、言ってしまうと、特にそれで幸せになったわけでもありません。その目標を達成したということで、新しい経験もたくさんできましたが、「達成した」ということが、もうすべての面白みをなくしてしまいました。
「達成」により目標が無くなることによる虚無感
ということで、若干具体的な目標など達成しても特に何の面白みもないのです。むしろ目標が無くなることによる虚無感のほうが大きいというのが本当のところです。
だからこそ、もし具体的な目標を設定するなら、常にある段階で上方修正をする必要があります。
なぜなら、そうした現状とのギャップがないとポテンシャルエネルギーが湧き起こらないからです。
ギャップとエネルギー
意中の人とめでたく結ばれた、その後はおそらくジリ貧になります。
起業したかった人が実際に起業すると、勢いがなくなってしまう、大学入学を目標にしていた人が、実際に大学に入ると意気消沈してしまう、そんなことはよくあります。
ある種エネルギーを発生させようとする場合、現状とのギャップが必要になり、現状が「不快」、目標の先が「快」である必要があります。
ということは現状が不快になってしまいます。ただ、目標まで加速している事を体感すると、その不快は一種の快さをもたらすという感じにもなります。ただ、基本的には不快です。
おしっこが一番わかりやすいかもしれません。
「漏れる!」
というときに人の足を猛スピードで走らせるものは何でしょうか?
不快感です。
そして、目標は「用を足す」ということです。
不快であればあるほどエネルギーが出るのです。
そういうわけで、そうした構造を不快からのアプローチで何とかしようとしている人たちが、「罵声を浴びせている上司」などです。
ただ、こうしたストレスを感じている時は頭が働きません。
だから、現状で見える範囲以上の実力を発揮できないのです。
人が本当に不快を感じ、その上で頭も働くのであれば、その人は会社を辞めてもっといい会社に行くか、起業してしまいます。
目標が「快」であること
さて、「おしっこ」の例ですが、注意点がひとつだけあります。
それは用を足したときの体感記憶をすでに持っているということです。臨場感のある体感の記憶を持っているからこそ、行動の結果の予測がエネルギーとなるのです。
つまり、用を足せばどのような感じになるのかをある種具体的に知っているからこそ、猛ダッシュが可能になるのです。
で、頭の中で何か目標を掲げてみても、おそらくその目標に臨場感を持てず、「いやー究極的には別にいいかな」と思っているはずです。
営業目標を5倍に設定してみたところで、それがどのような体感なのかを掴むことができていない上に「その後がプレッシャーだな」という不安感も持っているはずです。
だから目標設定が意味を成さないのです。
で、アイツ騙しとは何かということですが、単純にアイツを騙して体感の記憶と目標を臨場感を持ちながらくっつけてしまうということです。
その上で現状が不快であると設定します。そうすると目標までのギャップの分だけエネルギーが出ます。で、アイツに命令されるがまま、勝手に行動を起こしてしまうのです。場合によっては、矛盾だらけであっても方法を選ばずやってしまいます。
わかりやすいのは「恋に落ちる」という感じです。
一度「ドキっ」としてしまうと、一見不合理ともとれるような行動を取ってしまうことがあります。
全く理由にならないような理由をつけてでも会いに行きたくなります。
そうした恋を経験した人にはわかりやすい構造かもしれません。
ただ、そうして達成した目標は、特に人を幸せにはしてくれません。
アイツがマイナスを設定して、それをゼロに戻すだけですからね。
といっても、何某かの現実は展開します。今まで経験したことのないような「新しい世界を見る」ということは叶えてくれるでしょう。
究極的に抽象的に
ただ、その目標のようなものが抽象的すぎると、アイツの理解の範囲を超えます。だから不快にもなりません。
目標というと、「3年以内に会社を上場させる」とか、「今年中に理想のパートナーを見つける」とかそういうことをすぐにしてしまうのがせいぜいです。
しかしながら、僕は中学一年生の時から「賢者になる」と思っていました。すごく抽象的だったのです。大学教授になるとかノーベル賞を取るとかというものではなく、「賢者」です。
そうなると何をもって「賢者」なのかがイマイチわかりません。
そして18歳位になると「聖者になる」と思っていました。
ここでも何をもって「聖者」なのかはわかりません。
「聖者になんてなれないよ、だけど生きてる方がいい」
というような歌がありますが、すでにその頃には、
「生きていなくてもいいから、聖者になる」
と思っていました。
それはもちろん「世間で聖者と認められること」というようなものではありません。
ただ、それが何者かもわからないまま「聖者になる」と思っていました。
「一切の煩いがないこと」
いい仕事がしたいと思っても、それは自尊心の充足であったり、やりたくないことを強制されたくないというものであったり、また、お金がほしいと思っても、それは安心感やお金がもつ力や自由の獲得であったりと、少し抽象的に俯瞰すれば本質が見えてきます。
そうなると、それらをすべて統合した抽象的な地点は「一切の煩いがないこと」、俗っぽく言えば「いつでも幸せであること」くらいです。
となると、世界的に認められた権威というものも安っぽく見えるはずです。「何千人、何万人のトップである」ということも安っぽく見えます。
自動的に設定されている
究極的には、そうした最高地点である「一切の煩いがなく、いつでも幸せであること」という目標は、自動的に設定されているはずです。特に考えなくても、誰しもが意識の奥でそれを設定しているはずです。
ということは、目標など設定しなくても、すでに設定済みですから、力を抜いていきましょう。
「幸せは『アイツが考えた』目標の先にある」と思っていたものの、実は足元に落ちていたということに気付くかもしれません。
過度を避けよ! 曙光 559
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