超人思想と力への意志(権力への意志)について触れていきます。
超人思想とは、ニーチェが「ツァラトゥストラはこう言った(Also sprach Zarathustra)」あたりで示した、能動的ニヒリズム的に生きる姿といった概念です。「生の肯定」として、永劫回帰の中で「生きること」を肯定して生きるという感じです。
力への意志(権力への意志,Der Wille zur Macht)とは、生の本質として、内的条件が外的に適応するというものではなく、それそのものとしてあるものという感じです。力は意志であり、力への意志はありますが、意志への力は無いという感じになるでしょう。
永劫回帰(永遠回帰)のついでと言えばついでですが、超人と末人というコントラストや力への意志という言葉を表面的に捉えてしまうと、胡散臭いコンサルタントやコーチなどが大好きな「踏ん張るぞ!」系に陥ってしまったり、単なる二元論化の上での評価のようなものになってしまいます。それではもったいないという点と、永劫回帰で予告もしていたので、ついでに軽く書いてみようと思ったしだいです。
それではまず超人思想あたりから進めていきましょう。
超人と末人というコントラスト
超人(ちょうじん)の概念を軸として書かれている「ツァラトゥストラはこう言った(ツァラトゥストラはこう語った)」ですが、とにかくニーチェとしては、永劫回帰という概念を用いて消極的ニヒリズムやルサンチマンを否定し生を肯定したかったという感じなので、ツァラトゥストラの中で、ニヒリズムの中にあって力強いものを超人としておすすめし、消極的ニヒリズムやルサンチマンの領域にある人を「末人(まつじん)」として否定したりしました。
でもこの超人と末人という概念は、単に「無条件に今の生を肯定しているもの」と、それ以外くらいの分類でしかありません。
何かを期待しながら「どうせ…」と「ウジウジしている人たち」とか、嫉妬の気持ちを持ちながら「本当は私のほうが…」という感じで歯ぎしりしている人たちが末人という程度です。
ただそうやって超人とか末人というコントラストがあると、単に体育会系的に「頑張っている人は素晴らしくて、頑張りもせずに諦めているもの、嫉妬しているものはくだらない」的な浅い解釈に終わってしまいがちです。
超人という言葉の感じが超サイヤ人のようなので、少年ジャンプが好きな人がいかにも気に入りそうな感じです。
しかしながら超人とは結局、僻みながら「本当はすごいんだぞ」と居直っているとか「未来は素晴らしいものになると約束されている」と思いこんでいるとか、「どうせ無駄なんだ」と絶望しているというようなあり方を排除し、能動的ニヒリズム(積極的ニヒリズム)的に生を肯定するという程度のものです。
永劫回帰の中でも触れていましたが、「この今の瞬間を永遠に何度も何度も繰り返すとすれば、この瞬間が再び訪れることから逃れられないとすれば…」という思考の先に
「じゃあこの瞬間を肯定しよう、肯定できる今にしよう、これこそが今を生きているという感覚であり、今を生きようとするこの感情こそが生そのものだ!」的な感じで生を肯定するのが超人だという程度です。
「これが人生か!よし、それならば、もう一度!」という態度ですね。
超人などただその程度なのですが、その字面から「戦闘能力の高い優れた人間」的な発想がなされたり、その逆である「末人」を単に「気合いが足りない人」程度に解釈してしまったりしています。
この後、力への意志と「力」を含めて紐解いていきますが、残念ながら「力を欲する系」の発想自体が「力」とは逆行するものであるという感じになります。
力への意志と「力」
力への意志・権力への意志は、独語の「Der Wille zur Macht」の訳語なので表現的にはどちらでもいいのですが、この「力(Macht)」とは何なのかというところから考えていく必要があります。
ニーチェの遺稿集、「権力への意志(Der Wille zur Macht) すべての価値の価値転換の試み」において「権力への意志」は、「認識としての権力への意志」、「自然における権力への意志」、「社会および個人としての権力への意志」、「芸術としての権力への意志」といった感じで示されています。
それらから権力や力といったものが何なのかを紐解くと、機械論的に帰結されたようなものではなく、単に「本能」のような、自然な衝動のような、欲求や欲動といったものという感じになっています。
外からの力によるものではなく、力学的な結果としての力ではなく、それそのものとしてあるような「力」が力への意志としての「力」という感じです。
「力」の発見
ニーチェが示した概念のため、例えとして合っているかどうかはわかりませんが、彼の遺した概念を説明することが目的ではありませんので、ひとまずこのまま進めていきます。
その「力」とは何かという点を、例えとして簡単にわかりやすく考えてみると、「水を飲んでその後、おしっこがしたいと思った」という構造から捉えていくことができます。
それを時系列的に考えると、水を飲んだからおしっこがしたいという流れができたということになりますが、それはあくまで表面的な現象であり、もう少し奥深くまで考えてみると、「なぜ、水を飲んだのか?」というところにつながっていきます。
もちろんその手前には「のどが渇いたから」という理由がありますが、「なぜ、のどが渇いたのか?」というところを、水分量の低下という客観的物理的な目線だけで考えるのではなく、もう少し全体的に洞察してみると、「生命維持のため」というような領域に突入するはずです。
そうなると、「なぜ、生命維持を目指すのか?」というところになります。そうなると、もはや語りえない領域になります。
いくら語ったところで、とどのつまりは「なぜかその方向性にセットされている」という苦し紛れの説明をする程度のはずです。
その何かの動機や行動の「手前の手前にあるような本能的な衝動」それが力への意志における「力」といったところでしょう。
そしてそれはどこまでも自然です。
それそのものも空であり、客観的に固定的に「実在」しているわけではありませんが、それそのものとして、どの瞬間にでもその状態となっているという感じの状態です。それをあえてラベリングすると「力への意志における力」という感じになります。
それそのものであるからこそ「力」
ここで考えてみたいのが、この「力への意志における力」は、それそのものであるからこそ「力」だということです。
冒頭で少し触れましたが「生の本質として、内的条件が外的に適応するというものではなく、それそのものとしてあるもの」という概念へのラベリングが「力への意志における力」という感じになります。
「外からやってきた力や環境条件に適応して反応する」という感じではありません。
そしてまた戦闘能力的な概念を含め「力を欲する」という感じは、力への意志における力ではないどころか、それが見えず、それを発見できないからこそ欲しているということにもなります。
さらに同時に「力を欲すること」、「力強くありたいと願うこと」は、力が無いことを肯定することにもなります。
だから結局は、「我、誰よりも強くあれ」と力むこと自体が弱者であるという逆説的な結果になってしまいます。
超人と力への意志
そういうことなので、初めの方に触れた「超人」と共に「力」を考えてみましょう。
超人と力への意志(権力への意志)の関係については、永劫回帰(永遠回帰)で触れていた「力に奉仕するところの、精選しり原理としての回帰の思想」とか、「もはや『原因と結果』ではなくて、不断に創造的なもの。もはや保存の意志ではなくて、権力」といったところで関係性が見えてくるはずです。
この生が何度も繰り返すとすれば、という発想から、この「力」を中心として今を捉えるというような感じです。
積極的ニヒリズムという概念で示そうとしていたのは、「力を欲し、自分基準で奮闘する」ということではないということが何となく見えてくるはずです。
世間では、思いっきり世間の常識を前提に持っているわりに「価値は自分で決める」的な、歪んだ積極的ニヒリズムこそ素晴らしいと騒いだりしています。
「価値は自分で決める」などと言いながら、その自分で決める価値の基準自体が、他人によってもたらされた基準であることを見落としているという感じです。
「自分にはできないと思っていた」→「そのできないと思っていた理由は虚像だった」→「だから自分にもできるんだ」とか、「彼らのいう幸せの形に従う必要はない。価値は自分で作り出すんだ」というような安易なものです。
それはそれで、常識に縛られて不服を受け入れて生きていくよりも随分とマシですが、それでもなお現代の社会の中で一定の評価を得たいとか、お金が欲しいとか、社会的な力が欲しいとか、そうした「外部のもの」を条件としています。
あくまで超人や積極的ニヒリズムや力への意志という概念は、ニーチェという他人が示したことなので、実際はどうか知りませんが、命がけで哲学的思索を繰り返していた彼が、そんな安物の自己啓発レベルで考えていたとは思えません。
存在の最も内的な本質
「力への意志」とか「権力への意志」という言葉を表面的に見ると、「社会の中で力強くあれ」というような概念のように見えてしまいますが、この概念は、一方通行的な「力=意志」であり、本質としての「ただ不断にあるエネルギーと方向性」であり、それは語り得ぬものであるというような感じになっています。
「すべての価値の価値転換」というところがキーポイントです。
ニーチェの遺稿集「権力への意志」にある「不断に創造的なものであり、『保存』ではなくて『力』」といったような一文がそれをよく表しているような気がします。
力への意志は「生成」されてできたものではない
また同様に、先の遺稿集では、力への意志は、因果律的に生成されてできたものではないという感じで示されています。
積極的ニヒリズムを捉える時「他人の決めた基準や価値で生きるのはやめよう」という感じで捉えられがちですが、では自分で決めた基準や価値だとして、その発想はどこからやってきたのでしょうか?
例えば、「親が家業を継げと言ってくるが、その圧力には負けず、自分のやりたいことをやる」というのはいいですが、ではその自分のやりたいことはどうやって発見したのでしょうか?
そうした点は自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解くで触れていたので詳しくは割愛しますが、「自由に選んでいるつもりでも、思いっきり何かに縛られている」という構造になっているはずです。
それでも直接的に他人の意識の中に縛られるよりは随分マシなので、それはそれでいいですが、ニーチェが積極的ニヒリズムに絡めて示す際の「力への意志」は、そのように外部情報から「生成」されてできたものではないはずです。
情報が集合し「生成」されてできたものではなく、もっと純粋な「力」という感じです。
力を欲している時点で超人ではない
力を欲することを筆頭に、外部条件を整えることを欲するということは、それが無いと落ち着かないということであり、力を欲している時点で超人ではないということになります。
力はそれそのものであり、それそのもので自然に表現されうるものという感じになるからです。まあ単純には本能エネルギー的な感じになるでしょう。
ニーチェとしては、この今を捉えるにあたって、単に生を肯定し、力の感情を感じて今を過ごそうという感じだったのでしょう。
彼によるとその力は、原因と結果の領域ではなく、「生成されてできたものではない」ということになりますが、それは客観的物理領域や、現状の情報空間を前提としています。
より深く考えるとその方向性すらも、「なぜだかはわからないし、わかったからといってどうすることもできないが、今形成されたもの」であるはずです。
ということなので、力への意志や超人と諸法無我について少し触れていきましょう。
力への意志と諸法無我
力への意志は、外部の情報による反応ではなく、それそのものとしてあるような本能の衝動や欲動という感じで捉えることができますが、それ自体は不断に連続性を持ってあるように見えるものの、よりミクロで捉えると瞬間的な生滅を繰り返していると考えることができます。
因果で考えれば「あったからある」という感じです。
しかしそのエネルギーと方向性は、純粋なものであり「他からの刺激・情報」のようなものが組み合わさってできたという感じではありません。だからといって固定的であるわけでもありません。
超人のあるべき姿
ただ、超人のあるべき姿、力への意志を捉えるという生き方自体は「この意識として今どうあるべきか?」ということであり、権力への意志の副題が「すべての価値の価値転換の試み」であるように、「この現実をこの意識としてどう扱うべきか?」という感じで示されているフシがあります。ということで、少し諸法無我のような要素があります。
もちろん諸法無我とは異なる概念ですが、よくよく考えると、「力」は不断でありながら固定的な何かという感じで示されているわけではなく無我(非我)とバッティングするわけでもないというところが面白いところです。
その上で、価値転換とは新しい価値を作り出すというような感じではなく、視点のあり方だけの問題で、価値基準から脱するという構造、「外界の情報への反応」から脱するという感じが、原始仏教的でもあります。
この今の「生」をこの意識で捉える時に、現象自体は他によって形成されたものでありながら、意識の照準は今のこの力にあること、というのが超人のあるべき姿という感じです。
しかしあくまで自我の領域で語られているフシがありつつ、致し方なくとも西洋哲学的であり、言語で示されているものであるので、まだ不完全性があります。下手をすると、晩年、政治カルトに利用されたように「私はこの力に沿って生きる」という暴走が起こる可能性を含んでしまいます。
そうなると結局、純化された力ではなく、妄想がもたらした「己の力」のような意識の奴隷になってしまうという構造を持ってしまいます。その力に沿うためにと他人を含めた外界の状態に依存する形になってしまうため、結局本末転倒になります。
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「力」はそれそのものとして今あるような感じになりますが、それを無理に意識でやりくりしようとすると、結局意識の奴隷となるという感じで捉えてみてください。
仮にですが、例えば「私は超人であり、積極的ニヒリズムを採用しているので、常識に縛られない」という観念を持っているとしましょう。
その場合、「抵抗している時点で、常識の影響を受けているじゃないか」という感じです。
それと同じように、「末人ではなく超人でなければならない」ということに縛られている時点で、超人ではないということになってしまいます。
では、そうした一切の概念や観念を取り払うにはどうすればよいのでしょうか?
それは思考の限界の先にあり、思考の領域を超えて現実を見破るしかありません。