認識と美

人間たちが依然として行っているように、彼らの尊敬と幸福感とを、想像の仕事と偽装の仕事とのためにいわば取って置くなら、想像と偽装とが対立する場合、彼らが冷淡と不快を覚えても驚く必要はない。 曙光 550 序

どんな業種にも共通して言えることですが、概ね抽象的な本質を掴んだものだけが勝っていきます。

おそらくこのあたりのズレが、ぽっと出の居酒屋なんかをすぐに廃業に追い込んだりしているのでしょう。

特にそれほど好きではないのですが、スティーブ・ジョブズなんかはその本質を捉えることに関しては天才的だったと思います(といっても僕のパソコンは常にWindowsです)。

本質だけを掴んで、邪念にあたる要素を削ぎ落としてシンプルにする、そんな感じの天才です。

イデア的シンプルイズベスト

でもだからといって「シンプルイズベスト」という言葉に逃げてはいけません。ただ単純なのと、本質以外を削ぎ落とすということは全く別物だからです。

Apple製品なんかはなんとなく和食に近い感じがします。

だいたいのものは加点方式で追加していくのですが、和食は引き算的です。

素材の旨味を残して、灰汁や臭み、水分なんかを落としていくという感じです。

それは素材への信頼というものでもあり、その素材本来の味を引き出すというアプローチです。

その場合、プラトン的ですが、その奥にあるイデア的な「本質」を掴んで、それを信頼する他ありません。

快・不快の「快」

究極的にはサービス業なんかは、快・不快の「快」をもたらすのが本質であって、もう少し具体化したとしても、「日常よりはよい時間を過ごしたい」というようなものであるはずです。

確かに行動として、サービス内容としては、それぞれ具体的なものやプロセスがたくさんありますが、それをなぞったとしてもどこかで不快なら、それは本質を掴んでいることにはなりません。

表面的なサービスの形式だけを整えても、様々な点で不快が生じてしまうのであれば元も子もありません。本質的な点は「快」をもたらすことであり、サービスそのものはその中心となる点にしかすぎません。

仮にマッサージをサービスにしているとして、マッサージ効果としての「快」は生じたとしても、ニオイや態度の悪さによる不快が生じたとすれば、「快」は減っていきます。また、支払い時に意味不明な「サービス料」などを徴収したりして「想定外の料金が発生した」ということから不快になったり、サービス提供中に求めてもいないようなしつこい営業行為をしたりしたら、さらに不快になったりします。

無駄に不快にさせている

もちろん個人差がありますので、すべての人に完全な快を提供することはできませんが、正しさを優先するあまり、知らぬところで「無駄に不快にさせている」というところが多すぎると、表面上は繁盛店と同じようなことができているつもりでも、不快さのマイナス点で、結局客足が遠のく可能性があります。

世の中のサービスの中には、人の行動の時間を縮めるというものもあります。交通サービスもそうですし、電話なんかもそうです。付加価値のあり方の中で、人の労力を低減させるということや時間を短縮させるという付加価値の付け方もあるという感じです。

で、そんな感じのサービスの中で、トラブルがあって結局時間がかかったり、問い合わせに時間をとられたりすると元も子もないという感じになってしまいます。時間短縮が売り物のはずが、別件で時間がかかるというのはいただけませんし、さらに労力や不快感まで加わってくるので、さらにいただけません。

不快感がキーポイント

取り違えてはならぬ!」なんかで書きましたが、経済理論上は最安のものしか選ばれないはずなのに、高いものでも売れている理由はそうした「トラブルに取られる時間」や「その場で感じる不快感」がキーポイントになっています。

「安すぎるには理由があり、何かしらのトラブルが起こったり、サポートが疎かだったりして、時間が取られたり、不快感が生じてしまうかもしれない」という予測が、高いものでも売れるということに一役買っています。

以前も少し書きましたが、そうした不快感をベースに考えると、「客層を広げようとして常連が離れる」というのも当然の理のはずです。ある種「快適な縄張り」を荒らされたようなものですからね。

認識と美 曙光 550

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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