思考がループする時は、基本的には情報不足や意志決定の気力不足が影響していたりします。決めるための情報が不足しているとか、あと一歩の思い切りの力が出ない、というようなものです。
堂々巡りを脱却するため、普通はそうした面でなんとかしようと思ってしまったりします。
また、とりあえず思考が働きだしたら「ストップ」と口に出したりして、思考ループによる気力の浪費を防ぐというような方法が勧められることもあります
しかしながら、何かしらの苦悩、苦悩から起こる思考のループを脱却するということに関しては、もっと良い方法があります。
苦悩や考えが同一の路線でずっと回っているのであれば、そのエネルギーの方向を変えて縦横無尽に展開させることで、本質的な部分の発見か、もしくは、ぼやけすぎて意味をなさなくなるか、のいずれかにたどり着きます。
把握している「悩み」を縦横無尽に展開
まずは把握している「悩み」を縦横無尽に展開するという点についてから触れていきます。
苦悩やそれに関する考えが堂々巡りする場合、苦悩の対象は確定的であるという前提があります。
そして「それを否定したい。否定して欲しい。でもあるのだから仕方ない」というような雰囲気を、感情面、感覚面で捉えてしまいがちです。
何とか否定しようと考えを巡らせたり人に相談してみたりしますが、やはりまた苦悩の方に戻ってきてしまいます。
そうした時、ひとまずその苦悩が自分の中にあることを肯定するということから始めると、事態は変わってきます。
まずはそうした苦悩自体を肯定します。
そして次にそれを抽象化してみます。目の前の具体的なものではなく、その奥にある方の悩みは何か、どうしたいのか、というような部分です。
例えば「早く就職を決めたい」というのが苦悩であれば、「この先の進路が確定することで安心したい」というのが一段上、つまり一段抽象化した苦悩です。ループから縦方向への移動です。
そしてそうなると、苦悩の要因、細かい要因がたくさん見えてきます。思い込み、偏見も見えてきます。見えるだけでまだ解消されるわけではありませんが、それでも同じ考えがループするよりは建設的です。
そして、その苦悩があるのはなぜなのかを徹底的に分解していきます。
金銭的な部分を含めた生活基盤、交友関係の安定、誰かへのプライドを含めた世間体、時間経過により不利になることへの恐れ、劣等感を味わわずできれば優越感を味わいたい等々、様々なものがあるはずです。これらは一種の横方向です。
そうした気持ちがあることもひとまず自分自身で認めます。
そして一応先の例でいうと、「この先の進路が確定することで安心したい」という一段抽象化した悩みから考えると、別のところに進学するというのも選択肢に入りますし、創業するということも選択肢に入ります。一応「婚姻によって専業主婦」なども選択肢に入るでしょう。
そうした具体的な「就職」、「進学」、「創業」等々を含むということで、抽象化された悩みということになります。この程度ではまだ解決しないかもしれませんが、思考ループよりはマシです。
そして、抽象化したことによって出てきた他の具体的な概念についてそれぞれ色々と検討してみます。
さらに同時に、「この先の進路が確定することで安心したい」をさらに抽象化したりもしてみます。
すると、「生活面で安心したい」くらいになってしまいますが、それを反転して裏側から表現する「生活面で不安になりたくない」ということになります。
で、それに焦点を当てると「不安になるのは嫌だが、義務感からだけでやりたくないことをやるのは嫌だ」というような面も出てくるはずです。すると、「義務感からでしかこの先を選べないというのが嫌だ」という面も見えてきます。
そうなると、「義務感」の原因は何かとか、「なぜ義務感から選ぶのではなく、行きたいから行くというような、行きたい方向が見つかっていないのか」という点に意識が向くかもしれません。
またそうした抽象化の時に、同時に「安心」に焦点を当てて、お金がないのは嫌だとか、世間体が悪いとかそうした面でどの部分を一番気にするのか、ということを考えて複数の方向に抽象化したり具象化してみます。
一応、「生活面で安心したい」という面で考えれば、永続的なものではありませんが、宝くじを当てるとか、株で儲けるとか、パトロンを捕まえるといったことも包括されるようになります。自分が職業や学校等々の関連のどこかに属して日々生活するということも含まれますが、それ以外の生き方も含まれていきます。
これらは一例ですが、そんな感じである苦悩を固定化せずに、縦方向に、また、横方向に、さらに斜め方向にでも良いので縦横無尽に展開します。
するとすぐに苦悩が無くなるわけではありませんが、本質的に求めているものが見えてきたりします。
ぼやけすぎて苦悩が苦悩でなくなる
それでは次に、ぼやけすぎて意味をなさなくなり、苦悩が苦悩でなくなるという点について触れていきましょう。こちらは少し哲学的です。
「三人寄れば文殊の知恵」を「空性」から捉える
三人寄れば文殊の知恵という言葉ありますが、三人も集まれば良い案が出るだろうというような解釈の他に、三人分の意見が集まれば、相手の意見の穴も見つかり、また、自分の意見の穴も見つかる、というようなことになり、対象がぼやけすぎて、それが固執すべき対象でなく無属性で空であることが見えてくるというような解釈もできるというような感じになっています。
三人が素直に本気で考えるということすれば、本来はそうなります。
つまりそれは、悩みが悩みとして機能しなくなるということになります。
「悩むようなことなのか?」
「悩んでいるから悩みなんだ!」
「本当に?」
の先にあるものです。それを「何が何でもこの感情を理解してもらう」という目線ではなく、理性的な思考で行うと論証不可ということになり「悩みが悩みとして機能しなくなる」ということになる場合があります。
きちんとした裁判
普段苦悩が起こっている時、頭の中で弁護人なしの裁判が行われているような状態になっています。
裁く人しかいないというような状態です。
こうした構成はある意味不合理で卑怯なので、きちんと対等に三者用意します。
訴える人たち、訴えられる人とその弁護人、判断をする人というような感じです。
訴える人たちは自動発生する自責の言葉、自分はもちろん「訴えられる人」です。そこにきちんと弁護人を用意します。
そして普段は一体化しているような訴える人たちと判断する人を切り分けます。
そしてひとつのルールを課します。
「判断をする人」に責任を取ってもらいますよルール
それはもし後々「判断がひっくり返るようなこと」があった場合、「判断をする人」に責任を取ってもらいますよというルールです。
でないと、無責任な医療情報やマスコミのように偉そうに言っておいて後で説がひっくり返っても「あの時はあれが最先端で正しかった」といって責任を取らないというようなことになってしまいますからね。
こうしておくと、勢いだけ、強い感情だけで物を言う人の意見に屈して同調するような無責任な判断はできなくなります。
極端な言い方ですが、「後で判断がひっくり返るような証拠や考えが出てきた場合、死んでもらいますよ」という条件の中であれば曖昧なまま判断を下すことができません。
するとどうなるかというと、判断する人は
「うーん…わからん!」
と言うようになります。
「うーん…わからんから好きにして!」
というような丸投げが起こってきます。
苦悩が苦悩として機能しなくなる瞬間です。