ドイツ人は、芸術家によって一種の夢想的な熱情に駆られることを願う。イタリア人は、芸術家によって自分の現実的な熱情をやめて休息したいと思う。フランス人は、芸術家によって自らの判断を表明する機会と話のきっかけとをつくりたいと願う。したがって、われわれが公正であることを! 曙光 217
「芸術家」と聞くと嫌な予感がします。さらに「芸術がわかる人」という一種のステータスのようなものを欲しがる人を見るともっと寒気がします。
たいていはソムリエの資格を趣味で取りに行こうとするような人ですが、芸術一つとっても、人と語っている暇があれば、一人で感じていればいいのに、誰かに「違いがわかる人」と思われたくて、誰かと一緒でなければあまりやりません。
芸術を感じる感性自体はいいですが、芸術が分かる人、違いが分かる人と「他人に思われたい」という動機を持っています。
浜辺にかぼちゃ
瀬戸内海に「浜辺にかぼちゃを飾ってあるところ」があるそうですが、個人的には写真を一瞥しただけで寒気がします。
あれを芸術と思える方々は、どうぞ芸術を「語って」いただければ結構ですが、この寒気は、芸術として一種の「感情を動かされた」というタイプのものではなく、あれを観て写真を撮るような人の寒さに耐えられないという類のものです。ロフトか東急ハンズの玄関においてある程度の作品です。
この世にあってもいいですが、無くてもいいものの最たるものです。そういうものに無駄に価値をつけてはいけません。
本当にあのかぼちゃに「感動」して、現地まで見に行こうとしているのか疑問です。ただ、「芸術」みたいなテーマをもったテーマパークに行くようなものではないでしょうか。芸術を味わう時は「語り」は不要です。
ルーブルの作品
京都はパリと姉妹都市のようなので、京都の美術館にはよくルーブルの作品が展示されています。
生のシャガール作品やルノワール作品などもよく来ますが、僕は「撮影 シェア OK」と書かれていても、シャガール作品やルノワール作品を写真に撮ろうとは思いません。事実一度も思ったことはありません。撮って人に見せるのはサブカルチャーの類です。
美術館は映画に行くより少し安いくらいの価格ですが、十分に楽しめます。自転車で行けるようなところにゴッホやシャガールやルノワールがあるのに、わざわざ新幹線に乗って船に乗って海を超え行くほどのものなのか、と思ってしまいます。
どうせなら瀬戸内海を見よう
どうせなら、かぼちゃではなく瀬戸内海でも見ていたほうがよほどいいでしょう。
まあ、あんな島は、サクセスストーリー風の漫画DMを送りつけて子供を騙して、子供に親を脅迫させて教材を売るような会社が仕切っているのだから、しかたありませんね。
「勉強とクラブの両立」というコンセプトのもと、漫画の展示でもしたらどうでしょうか。
芸術家 曙光 217
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