聖職者の襲撃

「君はそれを自分自身で決着をつけなければならない。なぜなら、それは君の生命の問題であるから!」― こう叫んでルターが跳びかかってくる。首に短刀がつきつけられたようにわれわれは感じるだろう、と彼は思う。われわれはしかし、高級でより思慮深い人の言葉で、ルターを近づけない。「あれこれのことについて、全く意見を立てず、こうしてわれわれの魂から不安を免れさせるのは、われわれの勝手である。なぜなら、物自身は、その本性上、われわれからいかなる判断をも強奪することはできないからである。」 曙光 82

哲学的・倫理的な格言は、時に自分を責めるものになります。

抽象的な本質を捉えること無く、ただ自分の知っている限りの言葉の印象でそうしたものを解釈することが、よくその原因となりえます。

経済系の雑誌はよく都合よく色々な格言を持ち込んできます。しかし経済が前提になっているからには、「資本主義は正しい」というところからスタートしているはずです。

そんな感じで解釈していくと、どんどん方向性が変になっていきます。

多様な解釈

確かに解釈は人それぞれ、ある言葉を各人がどのように解釈してもいいのですが、一つだけ注意すべき点があります。

それは、多様な解釈を一度全て検討してみるということです。

もちろんその時点での限界で構いませんが、ひとつの格言にしろ、何か好きなアーティストの歌詞にしろ、色々と解釈可能性を考えてみると、その後に雑誌や「偉い人の発言」などに騙されることも無くなっていきます。

何かの解説を読んでも、その人がその言葉を解釈するにあたって持っている前提などが見えてくるようになります。

例えば愛という言葉は非常にぼんやりしています。わかったようなわからないような言葉です。芥川龍之介氏のように性欲の詩的表現という感じで、そうした感情のラベリングとして用いる人もいれば、アガペー的な意味で捉えている人もいます。

一つの単語ですらそのような形なのだから、文章になるともっと不明瞭になっていきます。

君と僕の多様な解釈

さらに「君と僕」という関係性があったとしても、「君」は、「昔の僕」かもしれませんし、「未来に想像する僕」かもしれません。

「僕」にしても「君」を「未来の僕」とした上で「過去の僕」という感じになっているかもしれません。

また僕は、誰か他人の意識の中にある「君の中の僕」という意味かもしれないのです。

さらに、世間がラベリングした外から見える「僕」と主観的な自分という分類かもしれません。

こうした一人称と二人称の関係すら、多様に解釈できてしまうのです。

そうなると、意味がわかりにくくなるのと同時に、世界が広がります。

何も意識しないでいると、自分の中で重要な事柄になっている部分からの解釈が始まります。いわば自分の中の都合が優先されて、その他は覆い隠されてしまいます。

しかしそれではもったいないのです。

「自分の都合」に気付き、それをひとまず棚上げして一段高いところから見るようにする、そうすることで多様な解釈を同時進行で味わうことができるようになります。

そうしていくとそれが自然になっていきます。

特に意識しなくても、多様な解釈を同時に想起することができるようになります。

「自分の都合」というのも一つの解釈のパターンとして保持してもいいですが、その他の覆い隠された「たくさんの世界」を同時に味わっていきましょう。

聖職者の襲撃 曙光 82

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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