義務と権利の博物学のために

義務と聞くと嫌な響きがしますが、たまに義務を根拠に何かの意見を主張してくる人がいます。体育会系の上下関係など、世間で勝手に義務とされているようなことであり、「そんな義務はどこからきたのか?」ということをまず聞きますが、法律上でも私人間なら権利義務関係は契約という概念がないと原則生じません。つまり双方の意思表示の合致ですね。言い換えれば特に私人間だと合意がないとそんなものは発生しません。

いい年をこいて、「駅まで車で迎えに来るはお母さんの義務だ」と、決まってもいないのに、また履行しないからといって、他の誰かにどう主張できるのか聞いてみたいですね。一応決まってもおらず、義務でもないのに、本来は自分自身でやるのが原則なのに「やってくれる」ということがありがたいことだと気づかねばなりません。

憲法の性質

それなのに、たまーに義務として憲法を持ち出す人がいます。憲法に記された「国民の三大義務」などを根拠に説得をしてくる人です。

憲法の性質をわかっておらず、確実に憲法を学んでいないことは明白です。それなのになぜか、「憲法は法律よりも上位なので根拠になる」と思っている人がいます。せめて芦部信喜氏くらいは読んでおいたほうがいいでしょう。政治家でも勘違いしている人がいますから要注意です。

国家を縛るためだけのもの

すでにご存じの方には釈迦に説法ですが、憲法は国家を縛るためだけのものです。国民を縛るものではありません。ここで「三大義務があるじゃないか」と反論してくる人がいることはわかっていますが、どう考えてもこの義務規定は構造としておかしなものがあります。

国民の三大義務

義務の代名詞ともなっている日本国憲法の「国民の三大義務」は、教育と勤労と納税ですが、義務教育と納税の義務すら本来は、「憲法」として明文化するようなものではありません。ただ、義務教育は、どちらかと言うと教育を受ける権利の裏返しであり、納税は国家が存続するための「しゃーなし」です。でも本来は納税を義務として明文化するのはおかしなことです。憲法は国家を縛るため、暴走を食い止めるための性質しかありませんから。

特に教育の義務は、国民の「教育を受ける権利」と解されています。憲法は国家に対する縛りという属性を持つので、「国家が国民に対して教育を受けさせる義務を持っている」という構造になっているという感じです。

問題は勤労です。なぜそんなものを義務化されなければならないのか不思議です。そもそも国家を縛るための憲法に義務規定がある事自体が変なのに、「働け」そして「納税しろ」という脅しに満ちた明文です。ただ、強制力として働かせることは性質上難しいでしょう。これに関しては、国家が国民の雇用を促進させる、つまり国民は勤労の権利があることの裏返しという解釈もあるようです。

すなわち、国家を縛るための憲法における「勤労の義務」は、「国民の勤労の権利」を国家が制限したりせずに、むしろ労働基準監督や雇用促進などなど、勤労に対して力添えをするというような性質があるというような感じです。ハローワークなどはその表れのひとつになるのかもしれません。

大学などでは、三大義務についてはどの先生も、首を傾げながら教えているはずです。「さっきの憲法そのものの性質の説明と矛盾するから、しらこいなー。なんじゃそら、と思われるだろうなー」と思っているはずです。

たいてい他国の憲法との比較などで「うちだけ特別トンチンカンなわけじゃないよ」とごまかします。憲法における義務の規定は、憲法学者の間でも「うーん、どう取り扱おう…」と、解釈がわかれているようなポイントです。

こんなものを根拠に「勤労の義務があるんだから早く働きなさい」と言ったら、追々赤面するだけですから、やめておいたほうがいいでしょう。

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Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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