美しさのもつ危険

この女性は美しくて賢明である。ああ、彼女が美しくなかったら、どんなにはるかに賢明になったことだろう。 曙光 282

本であっても人の話であっても、その情報がどんな情報であれ、情報というものならば、内容とそれ以外の属性は切り離さなければなりません。

その人の経歴や肩書などの属性は、その情報を解釈するにあたっての単語のもつ意味、つまり定義付けの「ぶれ」をなるべくなくすために、参考程度には使えますが、それ以上の意味を持たせてはいけません。

たまに、「権威による事無く、肩書を気にしないように」という旨のことを言ってくれる人はいますが、それをそのまま捉えてしまうと、相手の立場というものがもたらしている思考の癖や、使っている言葉の定義の解釈が困難になります。

立場による思考の癖や定義

社会において何か語っている時は、その人の目線、立場が関係してくることもあります。社会的な議論の際には、そのフィールドが関係性の問題ですから、時に意味のあるようなこともあります。

立場によって都合の面が違うので思考の癖も違ってきますし、言葉の定義、概念の定義が違ったりもします。会社における会社側と労働者側などはそれが顕著ですし、社会的な領域においてはそうした齟齬が生まれるのは仕方がない面があります。

しかしながら、それを持ちだしてはいけない、いけないというより持ち込め得ない領域にまでその手法を持ってくる、ということをしてしまうと、出だしから間違えてしまうという結果が待っています。

どの領域でどのような立場で話しているのか

いくら人との関係性で成り立っている「社会」と言っても、サークルと会社では異なり、会社と家庭でも異なれば、家庭と友人でも異なります。

サークルと会社の場合は、消費者的な集まりと、利潤の追求という目的を持った組織という違いがあり、会社と家庭では、ほとんど赤の他人同士が集まった資本主義組織と遺伝的にも関係性のある無償の親愛的集まりという明確な差があります。

社会の中でも組織に分類があるように、社会と個人、他人との関係性と、それとは独立した事実や法則、哲学的領域というものがあります。

人と話す時でも、自分が今話している内容は、どの領域で、どのような立場に立って話しているのか、たまに意識しながら話したほうが相手に伝わることがあります。

全体主義的な一般論と、立場によって異なる「都合」からの「意見」を意識するだけで、軋轢も激減するでしょう。

それでも、それらはただの意見、ただの一解釈であり、いくらでも語り得るものの、説得には使えても、どこにも絶対性はなく、あってないような、空虚なものです。

それにしがみつこうとしても、しがみつけ得ないことに気づいたなら、どんな時にも柔軟に対応できる、ストレスのない暮らしが訪れるでしょう。

美しさのもつ危険 曙光 282

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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