多分医者なしで生きる

病人は、医者にかかっているときには、自分で自分の健康に気をつけているときよりも軽率であるように私には思われる。前者の場合、一切の指令されたことに厳密に関係していれば十分である。後者の場合われわれは、あの指令が目指すものすなわちわれわれの健康を、医者から勧められてするよりも一層良心的に注目し、はるかに多くのものを注意し、はるかに多くのものを自分に命令し、禁止する。あらゆる規則は次のような効果を持つ。すなわち規則の背後の目的から注意を逸らさせ、一層軽率にさせることである。 曙光 322 前半

大きな会社にありがちですが、業務がきちんとできているかのチェックシートなど、「上司がそのまた上司にツッコまれた時の言い訳証拠書類」を増やすと、新入社員で真面目な人以外は、誰も真面目にやらなくなるというようなパラドクスがあります。つまり、面倒くさいので盲目的に書類を仕上げて終わりというやつです。

大きな会社や行政機関などは、組織が大きく官僚制ですから、書類上で確認をとったりすることが多いでしょう。階層を多くするからそんなことになります。ある種の簡易迅速主義ですが、「書類が揃っていればそれでよし、実態はどうでもいい」ということに陥りやすい傾向にあります。

社会は蓋然性でしか決定されていないため(蓋然性とあいまいさ)、また、それ以上の議論は不要であるため、「おそらくそうだろう」という基準を自ら「書類で確定させよう」と決めているのだから、それでいいといえばそれでかまいません。しかしながら、それが時に売上や期待した結果に貢献しないどころか、意味なく時間と労力を使っているだけになっているケースがよくあります。

ある程度の規則を設けることは、それはそれで一種の統制に役立ちますが、全て規則でなんとかなる、というわけではありません。

逆に規則のせいで、本質的にやるべきもの、目指す方向性が見えなくなることがあります。

証拠と結果

例えば、そのような書類上でなんとか要件が揃っていれば、一応仕事をしていることになってしまう、ということです。しかし書類上でそうなっていたとしても、実際に何かの利潤をもたらしたのか、ということは別問題になります。

「一応やった」という証拠さえあればよい、というのは学校のような消費者的な位置の時だけで、「やったものの売上はゼロ、でもやった証拠はある」という場合、それが個人事業主であった場合は、お金が入ってきません。

それが、基本的な人間というか生き物の当然の姿です。

やった証拠がいくらあっても餓死します。証拠などどうでもいいから、食料を調達する。エネルギーを調達する、ということです。それは全生命体がやっていることです。

しかし世の中ではなぜか証拠のほうが優先されます。

学校はある種の訓練の場所であり、教えてもらう側がお金を払っていたりするので、それで問題視はされないはずです。

利潤最大化の投資思考

たまに投資的に、初期段階での結果を求めない場合はありますが、それは長期スパンでの投資とリターンの考えから、利潤最大化を考えてのことです。利潤最大化を考えていない場合は、何か感情的なことが入っていたり、社会福祉のような要素があるでしょう。

それだけのことです。

学校での様々な結果は、すべて証拠です。成績にしろ、何かの賞にしろ、評価など証拠ですから、それが元でエネルギーを調達することはできません。資格も同じことです。

たとえ文書的・活字的な証拠を作ったところで、それを元に何か相手の役に立ったりしない限り、それをエネルギーに変換することはできません。現代で言えばお金ですね。

たまに業務独占でもないような資格を評価するようなことがありますが、それはそれによってさらにスキルを上げてくれということです。

一旦評価してエネルギーも与えるから、さらに勉強することによって様々なことに対応できるようになっておいてくれ、という期待的な投資です。それは後々の利潤最大化の投資思考が入っているはずです。

資格勉強をするということは少なからず暗記を筆頭とした知識習得が行われます。ということで、ある程度基礎的なことを知っているので、配置転換の際に業務訓練や研修に時間がかからない、ということで、その分だけ会社はお金が浮きます。

そのような投資思考が入っていない場合は、慈善事業家か、ただの経済音痴です。

洗脳の結果としての消費行動

多分医者なしで生きる 曙光 322

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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