これで1200記事目になります。1200回目の投稿ということで「第1200回投稿記念」です。
前回の第1100回投稿記念は、2017年12月7日で、前回からの100記事は、7ヶ月弱かけて投稿したという感じです。最近また少しばかりの特別企画中ですが、しばらくは通常投稿をしていたので、長文のものが目立つ感じになりました。
さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。
また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。
それではおなじみのアクセス解析から投稿記念の回を進めていきましょう。
アクセス状況
昨年末からちょろちょろインデックス制御を行ったおかげでもちろんインデックス数は減っていますが、全体的なアクセス数などは伸びています。
前回の2017年12月7日から2018年6月30日までの間のユーザーさんの数は51812名ということでした。年齢層としては25歳から34歳の方の閲覧の割合が増えているようです。
いつもトップ10の掲載ですが、今回はトップ20ということにして、アクセスの多いエリアとしては次のような順になっています。
東京、大阪、神奈川、愛知、埼玉、京都、千葉、福岡、兵庫、北海道、静岡、宮城、茨城、広島、群馬、新潟、岡山、栃木、長野、岐阜
また、一応スパムっぽくない海外からの純粋なアクセスもちらほらという感じです。ほとんどがアメリカとフランスですが、今回はあえてアメリカのトップ10を掲載しておきます。
California、Washington、New York、Hawaii、Texas、Massachusetts、Illinois、Minnesota、New Jersey、Oregon
サイト内検索
毎度おなじみサイト内検索です。
まずは数が多かったものから。
- 時間
- 未来
- ほめる
- 正当化
- 仮観
- 誕生日
- 責任
- フルオートマ
- 感動
- 穴を
- 寂しい
- 不安
- 無視
- イライラ
- 慈悲
- 自我
- 疲れた
- 無属性
- 営業
爆発的に多い特定のキーワードというものはなく、比較的分散しているような感じでした。
かつての安定上位だった「Z会」は74位に転落しました。
次におもしろキーワードです。
- 何だったんだ/なんだったんだ/なんじゃそりゃ/しらんがな
- ミスター脳筋
- 離婚
- NHK/エヌエイチケー
- チョップ
- 仮想通貨/FX自動売買システム
ちらほら人物名やマニアックなワードもありつつ、あと何故か「相談」に関するものが多かったですね。
さて、投稿記念の回なので毎度のことながらいつもと違った感じで書いていきます。
不完全燃焼と破壊衝動
日常には細かなストレスというものがついて回ります。緊張を伴う精神的負荷のようなものです。
怒ったり逃げ出したりするほどではないものの、軽く不服が残ってしまうようなストレスです。
今ではそんな細かなストレス自体をすぐに流していくことができますが、昔はそれが溜まった時どうしても破壊衝動に駆られることがありました。怒りの気質が強すぎたからです。
運良く音楽というものなどに昇華できたおかげで何とか大人になりましたが、もしそれが無かったらとんでもない事になっていたのではないかと思うことがあります。
そんな中、やはり今でも稀に「ロックのようでロックではないもの」に触れた時、強烈な不完全燃焼が起こり、ふと破壊衝動が一瞬だけ起こるときがあります。まだ微かに残っていると言う感じです。
それは音楽でもそうですし、その他文化芸術に属するものでも起こります。
ロックではないものに対する不完全燃焼
先日社長仲間がライブをやるということで、久しぶりにステージを観に行きました。それはそれで良かったのですが、対バン相手があまりにも「ロックではないもの」だったので、不完全燃焼を起こしてしまいました。
もちろん「ロック以外は受け付けない」というわけではありません。「ロックのようでロックではないもの。ロックであるべきものがロックではない表現になっているもの」に違和感を覚えてしまうのです。その時は「少なからずロックであるべきもの」を義務教育的に取り扱っている「おじさんの自慰行為」に付き合わさせられている感満載でした。
その場で激しい怒りが起こったというわけではないのですが、少し悶々としてしまいました。
爆音でX JAPANを弾く
その悶々感は翌日まで続いていたため、「爆音でX JAPANを弾く」ということでなんとかやり過ごしました。
すぐに可能ならば、「X JAPANを叩く」ということをしたかったのですが、スタジオに行こうが2バスやタム、シンバルの関係でどちらにしても不完全燃焼になりそうだったので「爆音でX JAPANを弾く」という少し不明瞭な折衷案でやり過ごしました(なお、ツインペダルも持っていましたが、大昔にバンドメンバーのドラムに貸してそれっきり未回収です)。
もちろん上手く叩けるか、スタミナが続くかはわかりませんが、そういう問題ではないのです。
この時、僕の中での「最もロックであるもの」がX JAPANであることを再確認し、ベースではなくギターを手に取り、僕の中の永遠のロックスター故HIDEさんにある種の救いを求めたわけです。
いつものストラトキャスターだとフレットが足りないのと音的にハムバッカーでないと嫌だということで、今回はGibson Les Paulです。
もちろん「X JAPANを弾く」といっても、かなりのブランクがあり、所々忘れていたり、思うように指が動かないというシーンが多々ありました。
しかしそれはそれでいいのです。あくまで自分の中で完結するだけですから。
「遊びがてら友人とセッションをすればいいじゃないか」
というわけでもないのです。
その不完全燃焼を解消するには「X JAPANでなければなかった」という感じです。
「おじさん」が奏でていた「ペラペラのクランチ」を「低音の効いたディストーション」でかき消さざるを得ないという感じです(クランチサウンドも好きですが、そういう問題ではありません)。
思春期の破壊衝動に近い
その後もやはり「何かに触れるということは、何かのリスクがある」ということで、ロクでもない作品に当たったりしました(先日「ひとこと」で触れていましたが、破いて燃やしておきました)。
それらは、強さは弱いものの思春期の破壊衝動に近いものがあります。
時折そのような感じで、思わず破壊したくなる衝動が起こることがありますが、それはそれで必要なことだと思っています。
それを義務教育的に押し込んでしまうと、あとでどこかで帳尻を合わせることになってしまいますし、破壊衝動が起こることで少なからず何かの形で世の中にその衝撃が波及し、インパクトを与え何かしら世の中を変わっていくのです。
創造と破壊などといいますが、たいていは逆で破壊があって創造がある、という感じになります。
何かが生まれる時はその手前で何かを壊れなければなりません。
ということで、嫌いなものは嫌いでとことん嫌うというのが正しく、そうしているとどうありたいかがはっきり見えるようになるという感じです。
破壊の対象は「これくらいなら耐え忍ぶだろう」というような細かなストレスの蓄積も当てはまりますし、自分で勝手に決めた限界というものも当てはまります。
時に明日のことを考え、何かをセーブしてしまうという、そうした抵抗に対して思いっきり破壊衝動をぶつけるという感じで行きましょう。
そうした時、あくまで壊す側に立つべきであり、壊される側になってはいけません。
X JAPANと思春期の僕
今また新たに活動を始められて久しいですが、X JAPANが解散したのは僕が中学2年生の時でした。ベースを始めてスコアを買って数ヶ月で急に解散宣言です。そしてTOSHIさんの洗脳報道です。僕にとっては展開が急すぎました。
その後、いきなりHIDEさんが亡くなりました。僕が中学3年生の初夏の出来事です。
思春期真っ只中、「現実世界は一体どうなっているのか?」という感想しかありませんでした。当時大阪でも行われた追悼イベントに同級生と行ったのを覚えています。
小学5年生の時には、阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件、中学2年の時にはTOSHIさんの洗脳、3年になってすぐのHIDEさんの死、思春期の僕にはいろいろとその後に随分と引き摺りそうなテーマが盛りだくさんでした。
「目の前に飛び込んできたニュースは本当なのだろうか?」
と思わざるを得ないようなことばかりでした。
本当に「いつ何が起こるかわからない」という感じのことを突きつけられていたという感じです。
その当時、「自由意志」と言う言葉は全く知りませんでしたが、カルト教団の暴走や洗脳報道があったのを受けて、僕は子供ながら「その人の自由」というのが一体何なのかわからなくなりました。
「人の意見を尊重しましょう」というようなことを義務教育で説かれていたのですが、「洗脳」というキーワードを知った僕たちは、「洗脳されている人の意見はどうしたらいいの?」と先生に聞いていたような気がします。
同じニュースを見て、いろいろなショックを受けた僕と同級生は何かと哲学的なテーマを話題としていたような気がします。
子供の純粋な視点
思えばそうした当時に感じて考えたようなことは、ほとんどが正解であり、その当時感じた違和感が非常に正しかったということを改めて思うことがあります。
もちろん中学生の僕なら「ペラペラのおじさん」が醸し出す「似非ロック」な雰囲気にキレていたでしょう。
しかし大人になればそんなものを見せられたところで「人それぞれ」とか「本人が楽しんでいるのだからそうしたものも認めましょう」ということを言い出したりします。
ほとんどの人はそう言うでしょうが、僕は中学生の時のような怒りは無いものの、「違うものは違う」と思っています。そのようなものを認める気はありません。
そのようなものを認める気はないのですが、自分とは接点のないところで謳歌しておいて欲しいということです。
今回はたまたま遭遇してしまったと言う感じですが、そう考えると、やはり社会との接点は少ないほうがいいということになります。
過失や未必の故意に関する考え方
世の中では「わざとではない」とか「そういうつもりではない」ということを言えば何でもかんでも許されると思っている人もいます。
しかし、そうであってもダメなものはダメだと思っています。
それで許すか許さないかは相手次第で、やったほうが主張するのはおかしいだろう、ということです。
僕は小学生の時からそんな事を思っていたのですが、大人の人と対峙した時に、それをどう根拠付けて話せばいいのかわからず悶々としていました。
その後、刑法を勉強した時、故意(わざと)ではない過失(うっかり)でも罪とされるものがあるという点や、「未必の故意」という考え方があることを知り、「仲間がいた」と感動しました。
その時の感動は結構大きいものでした。
法律を勉強して感動するということなど、想像もしていなかったことです。
やはり子供の頃から考えていたことを「法律を作るような人たち」も考えていたのだということ、そして、今まで「どう説明したら良いかわからずに言いくるめられていたこと」を今後解消していけることに気持ちが凄くスッキリしました。
ということを踏まえても、嫌いなものは嫌いでよいのです。
相手としてはわざと不快な思いをさせるつもりがなくても、現にこちらは不快な思いをしているのだから、わざわざそれに同調する必要はないということです。
「世の中の大人の人」に何かの理不尽を突きつけられても大丈夫です。「伝説的な大人の人」は子供のような純粋な視点を持って、最高峰の思考力で味方になってくれたりします。
ということで未成年の方などは、「くたびれた普通の大人」に染められてしまう前にできるだけ本を読みましょう。
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それでは引き続き、ご愛読くださいませ。
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