これで1100記事目になります。1100回目の投稿ということで「第1100回投稿記念」です。
ZERO STAGEで少し嵩増しされた感はありますが、前回の第1000回投稿記念は、2017年9月20日で、前回からの100記事は、その前と同じくまあまあの速度で投稿したという感じです。
そういえばもう少しするとロングラン特別企画「曙光」が終わります。どうせならということで、題目終了後も多少注釈ページや「訳者あとがき」などからエッセンスを見つけて何かを書いてみようかなぁと思っています。
さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。
また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。
それではおなじみのアクセス解析あたりから投稿記念の回を進めていきましょう。
アクセス状況
1000記事達成の時に若干過去記事を修正した関係などからか、全体的な検索表示回数は2/3くらいになっています。それがページ再評価までの一時的なものなのか、クエリのバランスの揺れからの釣りページの効果低減なのかはわかりません。
またおそらくアルゴリズム変更によって、検索がコンテキスト重視になったため辞書的なページが高評価になりつつあることも影響しているでしょう。
ちなみに前回の9/20から12/6までの間のユーザーさんの数は11997名ということのようでした。
サイト内検索
毎度おなじみサイト内検索です。
前回はサイト内検索のキーワード特集はしていなかったので8/13からの記録で調査しました。
まずは数が多かったものからいきましょう
- 無意識
- ブラック企業
- 抽象的
- 幻影
- 自分 無くす(複数パターン)
ああなるほど、という感じでした。
次におもしろキーワードに移ります。
- 言われたことしかできない
- ニューヨーカーでしたから
- トシちゃん
- 角刈り
あと、おそらく触れていないものがありました。
- 中島義道
- デパス
これはまあおそらくうつの人でしょう。
ということで投稿記念の回なのでいつもと違った感じで書いていきます。
意欲の終焉
おっといきなりいつも通りのような感じがしますが、私事です。
先日友人と喫茶店に行きました。
おそらく二人の会話を理解できる人はなかなかいないであろうような分野についてペラペラと話してきました。
友人と話していたのは、無意識と情報状態の量子的同調と物理的具体化のような話です。
で、意欲の終焉ですが、当の僕は今年の夏にひとつの意欲が終りを迎えた瞬間を自分ではっきり感じました。
それは仕事面の話になりますが、一方で達成であり、一方で虚無感のあるような状態でした。
一つの意図が役目を終えた、という感じでしょう。
その状態と養子の死によって、意識の中に大きな空白ができたからか、体調の不安定が続いていました。
意欲も切れていたため、ふわふわしたような状態が続いていました。
これは所謂煩いのような状態ではありません。
苦しさではないのですが、体としてはエネルギーの浪費のように感じてということなのか不調が続いていました。
そう言えば、大学教授などは引退してから数週間で痴呆になったり、敏腕社長なども完全に引退してから何か慈善事業のようなものをする人は別として、引退後1年で亡くなったりというようなことがよくあるそうです。
役目を終えたと思えば、アポトーシスのように死んでいくような感じなのでしょうか。
というようなことを思うと、消えて無くなるような夢を見たりしました。
普通は自分が死んで消えてなくなっていくような夢を見たら怖くなると思いますが、夢から醒めても何一つ感情はありませんでした。
目標が達成されるにつれて、どんどん新しい大きな目標のようなものをもっていたほうが意欲は続きます。
できれば、想像もつかないようなものを思い描いたほうが、達成されることもほとんどないので理想的です。
しかしながら、僕の場合は少し違って、そうしたものの先が見えてしまうのです。
それは、消極的で虚無主義的な感じではありません。
フラットな状態として見えるのです。
欲があれば、その欲を叶えた状態に対して意欲が湧くでしょう。怒りがあれば、その怒りの対象が解消された状態に対して意欲が湧くでしょう、しかし、そうした目線がなく、かといって一般的な「諦め」のような消極的で、抑圧され、意気消沈するような感じては無い感覚です。
「やりたいことがない」
という感じといえばそのような感じですが、夢を失った人のような虚無的に脱力感のあるような形ではありません。
ある長い夜の末に
それで、友人との会話が何か関係あるのか、ということになりますが、彼は彼で生活環境が一変したような感じでした。
そして、僕と同じように、自分の意識の状態と自分の体験の連動を体感しているという感じのようでした。
すごくおもしろいのですが、最近この意識状態と現実の反応に関する因果のレスポンスが早くなってきたような感覚があります。
今年の夏に、一気に意欲がなくなった瞬間から仕事は激減しました。「しばらくはもういいかな」と思っていたら、本当にそんな感じになりました。
しかし、ふと「ちょっとくらいはやろうかなぁ」と思った瞬間に翌日からバンバン仕事の話がやってくるという感じです。
だから僕が何かに意欲を感じれば、すぐに現実がそれに反応し、反映されるのです。
「読書月間にしよう」なんてなことを思い、図書館に本を借りに行ったりすると、数日後に友人から久しぶりの電話があり、会ってみると「これ面白いから読んで」と本を渡されたりするのです。
普通はそれを物理的に解釈するでしょう。
しかし、もっと抽象的な領域でそれが起こるのです。
それで、少し前ですが、長い夜を過ごすことになった日がありました。
それは夢現の中の変な感じでしたが、無意識の奥底に眠っていた最後の課題に対するような最後の戦いだった思います。
この表層上の意識としては関係のないところで、状況が変わってしまうことに対する怒りに関してでした。
僕が何をしたというのか?
「僕が何をしたというのか?」
という状況の変化についての怒りです。
例えば、僕と友人A、友人Bという三者で考えてみましょう。
友人Aと友人Bは基本的には関わり合いがありません。
友人Aと友人Bとの間で、僕を除いた付き合いがはじまり、その後二人は決裂したとします。
その場合は友人Aと友人Bとの関係性であるはずですが、なぜかその二人は、「僕」と疎遠になります。
いわば僕が何かをしたわけではないのに、僕と友人Aの関係や僕と友人Bとの関係がおかしくなるわけです。
そうして、自分は現実的な行動としては、何も働きかけていないにも関わらず全ての状況が変わってしまう、という感じです。
と、これは人間関係での話ですが、それ以外にもそうした状況はたくさんあります。
人は意識ではなく無意識で決定している、思考ではなく感情で決めているというのはわかりますが、そういう構造に対するものに対する憂いではなく、まさに諸行無常的に、何にも信頼を置くことができない、という感じに近い疑念です。
それは自分の中で安心したいというようなことではなく、すべての人が阿羅漢のようにならない限り、ふとしたことで直近の体験の体感に影響され、この間までは良好な関係だったのにそれが崩れるということが起こることを前提とするならば、もう僕が何の働きかけをしても同じではないか、というようなことをふと思ってしまいました。
「寛大がひろく必要なところ」で触れていますが、最後に遊んだ時は楽しかったはずなのに、良い思い出もたくさんあったはずなのに、数年ぶりにばったり会った時になぜか無視されるというような感じが不思議でなりません。
知らない間に相手は変わっていった、それはわかるのですが、どうして無視されるまでになったのかというのがよくわかりません。
一度相手に無視されれば、僕の意識も次にその人達に会った時に「無視しよう」という関数ができあがります。
僕自身は、煩いのない毎日を過ごしていますが、そうしたことからさらに意欲を持っても仕方がないというような観念が加速していきそうでした。
一瞬の出来事
と、夢現の中の、意識的にはそんなことを考えながらという感じでしたが、より意識がまどろんできた時に、もっと抽象的な空間の中に入ったような感じになりました。
それは一瞬の出来事でした。
そこには言語がありませんでした。いまは無理やり言語で表現していますが、全てとつながっている感覚です。
それは自分とその他とのネットワーク的な感覚ではなくて、まどろみの状態の中で全体がうねっているような感覚です。
その瞬間に世界を理解することができました。
フルオートマ
人生がフルオートマということは体感しつつも、どこかで憂いのようなものがありました。憂いという表現は変ですが、ある種意欲が湧かないという点についてです。それは無意識に眠っていた体感の記憶が原因でした。
意欲が湧かない事自体には何の問題もないのですが、何となく体に響いてそれでその体調の体感を受け取るのがあまり好ましくないという感じでした。
そういえば、「ひとこと」で触れていましたが、養子のうさぎが亡くなってから、養子と出会うまでの僕の意識との距離が急接近しているような感覚があります。
何故か急に10年前くらいから養子が我が家にやってきた8年半前くらいまでの間にしていたようなことを再度やりたくなってしまうのです。
その頃に読んでいた本を読んだり、その頃に再びやっていたゲームをやってみたり、その頃に登った山にもう一度登ってみたりしています。
なぜそうした行動を取るのかはよくわかりません。おそらく無意識的な行動でしょう。
考えてみれば経済社会の中にいつつも、少し前の自分と10年位前の自分では発想が大きく違っているような感じがあります。今の方が経験的なものも含めて知識もありますが、ある種今の方が盲点だらけのような気もしていました。
知らぬ間に「成功体験」のようなものがその他の可能性を隠すという感じになっていました。
ある種真っ白でまっさらな状態の時に持っていた幅広い視野での可能性が見えなくなっていました。
変なことにペルソナ2を再度やってみた時に(ちなみに三回目です)はっきりそれに気づきました。
といっても、経済社会の中で10年前のような意欲を持って何かをしたいというようなことは特にありません。
しかしながら、何かはよくわかりませんが、僕の意識は自分の意志とは無関係に勝手に関心の矛先を変えています。
10年以上前であれば、社会の中に仕掛けられたものに誘導されていたかもしれません。様々な仕掛けによって意図を歪められていたでしょう。
しかし既に、自分の意識すら介入できないような領域に非言語の意図が設定されています。
その意図に従って、今第1100回投稿記念を書いているという解釈すらできます。
たったひとつの意図
ある種具体的な目標のようなものはありませんが、非常に壮大なもの自体は揺るぎなく持っています。
それは、以前にもどこかで書いたように、「この世から無駄な苦しみを無くす」ということです。言葉にとらわれる人もいると思いますのであえて裏を返して表現すると「この世を安穏で満たす」という感じになりましょう。
それが実社会の中でどう具体化していくのかはわかりません。
―
もちろんその「この世」は、自分が認識できる世界と言えば自分が認識できる世界でありながら同時に一般的な世界の全てでもあります。
普通の表現をすると「すべての人を幸せに」という表現のほうがキレイかもしれませんが、もちろん僕の中では人に限定しているわけでもありませんし、「人の幸せ」なんて表現にすると、「じゃあオレの幸せはギャンブル生活だから金をくれ」とか「心穏やかにということであれば、私の借金を肩代わりしてくれ」とか「美しい顔にするために整形費用を出してくれ」とかいう人が出てきます。そういうことではないですからね。
「この世の無駄な苦しみ」を「無くす」という表現が最適であるかはわかりません。しかしながら一番近いニュアンスです。
例えばですが、高級マンションの何階に住んでいるかで、扱いが変わるとか、そういう社会があるとします。
で、それは無駄な苦しみを生みます。
そこで取られるのが最上階に住んでトップとして扱われる、というような解決策です。
でも、そうした解決策は本当の解決ではありません。
根本的にそうした自尊心の欠落と自尊心の充足を渇望するような観念こそが問題です。
それでも現実問題として、自分としてはそうした雰囲気に違和感を感じて、そうした基準を採用したくなくても、何となく変な空気に包まれて嫌な体感を感じてしまうというのがあるはずです。
一つの方向性としては、そうした基準が無くなるということですが、もう一つの方向として、どのような違和感の中でも平常心でいられるようにということが考えられます。
本心から好きでもないのに、見栄のために好きになろうとするということも苦しみなら、違和感を感じたくなくて変な基準に合わせるのも苦しみです。
心穏やかに幸せになりたくて成し遂げた結果が原因で、また新たな苦しみを呼び起こすなら、一体何をしているのかわかりません。
各々が条件の違う中で、勝手に比べられても困りますし、その結果のようなデータで全てを判断するような社会は地獄です。
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そう言えばつい昨日、奈良県吉野郡天川村の大峯山に登りました。
その時の思い出はまた別の機会に触れるとして、シーズンオフで他に誰も歩いていない自然の中にいると「僕についている属性は何の役にも立たないのが実感できるなぁ」と思いました。
どこの学校を出ていようが、今現在社長だろうが無職だろうが、顔が良かろうが不細工とされる顔だろうがそんなことはお構いなしです。
「この山道は自分についている属性によって態度を変えはしない」ということがよくわかります。
体力のあるなしは関係があるかもしれませんが、動物としての自分の能力のようなもの以外は何の役にも立たないということがヒシヒシと伝わってきます。
動物も虫も魚も植物も、僕の社会的属性は一切お構いなしです。
強いて言うなら、僕の意識の状態、感情のレベルによって態度を変えるくらいです。
基本的に敵意がありそうなら闘うか逃げるかということになりますし、特に問題なさそうなら問題なさそうに振舞います。
山道など自分の意識すらお構いなしです。
自分についている客観的なデータが一切通用せず、ただ今自分が持っている純粋な能力だけがモノを言う空間、という感じです。
そこには無駄な苦しみはありません。
言語的思考が一切介入できない領域です。
それは動物のような世界でありながら、人を超えた世界でもあります。
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社会の中では、単純に「好きだ」と言っても「なんで?」と理由の説明を求められることがあります。
そこで無理やり何かしらの理由をつけたり、ひどい場合は客観的なデータを根拠に説明したりしています。
その上で「好きなんだったら…」と何かしらの条件をつけられたりします。
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「なぜだかわからないが好きなんだ」というものが通用する世界がいいですね。
そしてその対象が全ての存在に向けば、この世から苦しみはなくなっていくでしょう。
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そうした感じで、無駄な苦しみのない世界を思い描いています。
それがどう出るかは、フルオートマに任せておきます。
引き続き、ご愛読くださいませ。
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