空アリという駐車場の看板についてです。
論理上はイエス/ノーで二元論化している空間でのお話です。
つまり埋まっているのか空いているのか、ということです。
コンピュータの世界では、0と1の2進法でほとんどのことが表現できてしまう。
しかし、こんなことが本題ではありません。
仏教では「空(くう)」と読み、あらゆる事物は固定的な実体性を持っていないと説きます。
いきなり「空」について触れてしまうと、それだけで終わってしまいそうなので、エッセンスだけ。
言語には限界があるので、伝わるかはわかりませんが、またいずれ書く事にしましょう。
一般的な「ある」と「ない」、「有」と「無」ですが、これはあくまで相対的なもので、何か対象を二元論化した時に出てくるものです。
前々の投稿で、抽象と具体について触れましたが、有や無をもう一段抽象化した最終地点が「空」になります。
たまに「空を感じて、無になりたい」ということを言う人がいますが、あくまで「有」の対義語としての「無」をイメージしていると思います。
結果、何も考えない「ボーッとした状態」みたいに捉えがちだと思います。
それを体感してみることもいいのですが、あくまで、「空」ではありません。
その一段階下の有/無の次元で頭の中で考えていることです。
「何もあるということはある」「何もあるということはない」
「何もないということはある」「何もないということはない」
普通に考えると、さっぱりわかりませんが、言語で表現しようとするとこの程度が限界です。
なぜなら、言語すらも超越している次元なのですから。
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この世の現実は全て流動的であり、止まることはありません。あらゆるものにとらわれることなく生きなさいと、釈尊はおっしゃいます。
僕は釈尊という言葉には違和感を感じます。
ですので使いたくないのですが、引用なのでご容赦を。
「物事に永続性はない」これは、なんとなくわかっているような錯覚を覚えますが、どこかに「これだけは変わらないだろう」とか「これは変わって欲しくない」とか思っている項目が眠っています。
それを直視しようとすると、脳というか「自我」は自分の存在意義が危ぶまれるので、猛反撃してきます。
「あらゆることが移りゆく」、ということを「俺のこの部分だけは除外で」とか「これだけは絶対に譲らない」とか考えずに捉えられればいいのですが、なかなかうまくいきません。
ただ、「どこかでわかっていながらも、認めたくない」という心の動きを単純に傍観することができれば、そんなことで一喜一憂、感情が振り回されるのもバカバカしい、ということに気づいてきます。
改バージョン⇒空アリ 改
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