短気な人間はどこでわかるか

戦い合い、あるいは愛し合い、あるいは敬慕し合う二人の人間のうち、短気な方の人間はいつもわずらわしい方の役割を引き受ける。同じことが二つの民族にもあてはまる。 曙光 398

短気というものは非難されがちです。しかし引用は、まあ「気が短い」というだけでそれが良いとも悪いとも言っていないところが面白いですね。

いつでも心地よい、快い状態でいたりとか、アイツによる騒ぎ、執着をやめるということは確かにそうあるのが良いのですが、アイツの性質上、快い状態でいなければいけないとか、執着を「やめなければならない」という、裏側の執着を作っているというケースもよくあります。

条件をなくしていく方が楽になるはずですが、楽になるためには条件を「なくしていかねばならない」という条件をつけているという感じです。

叶うはよし、叶いたがるは悪しし

先日の、千利休の「叶うはよし、叶いたがるは悪しし」というコトバには、いくつかの解釈・示唆があり、それらは統合されて抽象化されています(他人のコトバなのでなんとも言えませんが、僕はそう思っています)。

ひとつはわかりやすく、相手と仲良くなっているのは良い状態だが、相手と仲良くなろうという状態は良くない、という感じですが、また、同時に何者かになることは良くても何者かになろうと思い煩うのは良くないという意味も含んでいます。

そしてさらに、本当に面白いことに、現実とアイツの錯覚を見事に表しているということにも着目すべきです。

先ほど「手に入れる」ということについて書きましたが(真理は力を必要とする)、手に入れる、手に入れたがるということは、まさに「叶いたがる」ということです。

何かになるのではなく、成った状態を知るというか受け取るというか受け入れるというか、許容し、「見る」という感じが「叶う」です。

ある願い事がある人は、すぐにそれを本心からの願いだと思い込みます。

でもそうした願い事は、アイツが恐怖心を発端とし、計算結果としてはじき出した願いであることがほとんどです。

短気がもたらす焦燥

さて、何かを「願っている」ということは、不足を発端として現実として「無い」ということを肯定しかねません。

「いますぐ宝くじに当たりたい」と思っている人は、少し抽象化すると、お金が欲しいということですし、お金が欲しいを更に抽象化すると「楽しい経験がしたい」であったり「気苦労無く安心したい」ということになります。義務や責任、制限から解放されたいというものも含まれるでしょう。

宝くじということで、お金を手に入れるということに「苦労や負担なく」という面も含まれていたりします。楽をして、というものの他に「頭も特に使わず」というものも入っているかもしれません。

それをさらに抽象化すると「煩いなく幸せでありたい」というあたりになるはずです。

本当はもっと抽象的で漠然としたものなのに、「今の気苦労を一気に解放するためにはお金が要る。そして、現状で大金が入ってくる手段としては、宝くじくらいだ。安月給で特にキャリアアップも期待できないし、かといって犯罪を犯すのはなんだか嫌だから、まあそれくらいだろう」

というようなアイツこと自我の演算があるはずです。

そこで願い事として「宝くじで一等賞が当たりますように」というようなことを設定し始めます。

でもその一方で無意識の中では、「ここで大当たりしてしまっては、今まで努力してきた分が馬鹿らしく見えてしまうし、我慢してやってきた自分の半生を否定してしまうような気もする」とも思っているはずです。

こうした葛藤は実はたくさん眠っています。

そうしたアイツによる制限こそが、見えるはずのものを見えなくしているのです。

短気な人間はどこでわかるか 曙光 398

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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