中央集権的なものに対する「対抗ではない一種の脱出のあり方」として民俗学的な逃れ方のような方法があります。それは勃興時の民俗学が意図したところであり、「すべてが画一的になりつつある中、何が私達ならしめるのか?」というところのひとつの地域社会的な個性の保存といったようなものです。
それはひとつの全体的な侵略のようなものに対する個の空間的脱出のようなものであり、権力や合理性から画一的になりつつある社会において情報としての「地域社会的な個の保存」のようなものになります。
直接的な強制ではないが、物事のあり方、選択を制限する画一的な基準
個人的には、「ふるさと和気 民話編」で爆笑したりしているように、数年前からこうした民俗学的な分野に楽しみを見出しています。そしてそうした楽しみに意識が強く向き出す時は、決まって中央集権的な感じを色濃く感じた時と相場は決まっています。
高いシェア率から同調圧力が起こるというような感じや合理的選択かのように自己の内側で選んだかのような構造を予め仕組むことで何かしらに依存させようとしたり、「私達は間違っていない」という感じの風潮に影響され、共感する力が失われていくような様を見せられたり、というような時にその力は強くなります。
「こういうものが評価され、こういうものは評価されない」という画一的な基準は、直接的な強制ではないにしろ、物事のあり方、選択を制限していきます。
そして、そうした基準を設定するものが、精神の治療において「…間怠い!」と電気けいれん療法に走るような、「わかりにくい!」と多義性を嫌うずるむけ感満載のものであるのならば、より一層、全てが平均化していきます。
「地域社会が育んだ精神のあり方」の保存への意図
それは画一化され量産化されていく市民への憂いであり、個よりも少し広い、「地域社会が育んだ精神のあり方」の保存への意図というようなものです。
中央集権的なもの、資本主義的なもの、そして現代化していく全てがいけないわけではありません。むしろ合理性を考えればそうしたものがある方が良いという面もありますし、合理的で効率的で便利であるからこそ選ばれているという面もあります。
しかしながらその裏側で失われていくものもあります。そして気づいた頃には文化の上で「何が人間たらしめるのか?」というものが見当たらなくなるような感じになってしまいます。
例えば、国内であれば、方言を廃止し標準語だけになれば、地域的な差がなく言語的コミュニケーションが可能になりますし、英語か、いっそエスペラント語か何かを世界共通言語にすれば、言語による壁はなくなります。
そうなれば、生命保存に関する最低限の経済活動等々は円滑になるでしょう。しかしそうすればそうするほど「何が私なのか、私達なのか?」という面はどんどん消えていきます。そして、異文化に触れることで得るものは無くなり、「単に目の前のことを合理的にこなすだけ」という機械のような人々になっていくでしょう。
ということから考えていっそ機械になりたいというような人もいるようですが、「それならばなぜわざわざ生命を保っているのか?」とか「生きるとは何か?」という文系的な哲学面がパスされているような気がします。
「力比べの空間」からの脱出
ただ中央集権的な感じや合理性から現代化するものに、単に懐古的に対抗するとなると力と力のぶつかり合いになります。
そうなるとAという侵略に対して下火にあるBで対抗しなければならなくなります。
こうした力比べになると、やがて全てが侵食されます。ということでCという小さな船で、そうした空間から脱出するというのが理想的です。
そして、その後中央集権的なAはCを集合の内側に取り込むようになります。しかしその際、Cという独自性のある小さな集合は、侵食されて消滅するわけではありません。
そこで学んだとしても「到底そうした者にはなれない」ような教育機関があるとしましょう。そうした教育機関に席をおかず、その外側で大成した者も、結局その教育機関は「研究対象」としていったりします。しかし、研究対象としてある意味内側に取り込まれてはいても、独自性が消えたわけでもなく、教育機関のものとなるわけでもありません。
というような構造が、侵略への一種の理想的な対抗のあり方のひとつです。
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