理想主義的な理論に最も確実に出会うのは、ためらわない実行者たちにおいてである。なぜなら、彼らはその理論の光彩を自分の評判のために必要とするからである。彼らは、その本能によってそれを摑み、その際全く偽善感を持たない。 曙光 328 前半
自己啓発洗脳組も、ブラック企業営業マンも、胡散臭いコンサルタントも、新興宗教と同じくわざわざ人を騙している自覚がない場合があります。
自分自身ですら自分自身の意識が作り上げた虚像に騙されています。
それが「なんでもできる自分」なのか、「成功者(笑)」なのか崇高そうに見える企業理念なのかはそれぞれですが、なにか理想主義的なものが奥底にあります。
「自分のやっていることは絶対的に善行為なのだ」
という自負がないとあれほどにまで熱中できるはずがありません。
そしてその熱意が伝わらないとき、次のようなことを言い出します。
「自分のやっていることを認めて欲しい」
「認めて欲しい」はナンセンスです
世の中には「認めて欲しい」というようなことを言う人達がいます。
残念ですが認めるも認めないもありません。「認めて欲しい!」はナンセンスです。世の中では承認欲求などというような呼び方でそれが当然のものかのように語られていたりします。
「誰だって自分を認めてほしいよね?」的な感覚です。他者の承認を欲するというような心を当然のように扱うことは誤謬であり、認めてほしいなどというのはナンセンスです。
認めて欲しいという要求の先にあるもの
そして下手をすれば認めて欲しいという要求の先には、何か不要なものを売りつけられたり、タカられたりするものです。
もしくはプライドを立てて欲しいということでしょうか。傷ついた自尊心を何とかしてくれということでしょうか。
残念ですが、そんなことはしません。
認められるものは「認めて欲しい」という要求にかかわらず、勝手に認められるものです。
それに「認めてほしいんです」といった「お願い」を加えたりしないと何とも思われないのなら、それはただの自己都合、押し売りです。自然に起こることではなく相手に無理をさせているのですからその様になってしまいます。
そんな中、仮にその要求を飲んでもらえたとしても、それが何なのでしょうか。認められたところで何なのでしょうか?
相手の役に立たないようなものを提示しているだけです。
「認めてくれましたよね?」というような感じです。
しかし、そんな強要をしなくても相手の役に立つものを提示して相手が納得したら、勝手に認めるはずです。
そんな中、単に他者を通じて承認欲求と満たすという感じを通り越して、「認めること」とか「認めたこと」を根拠に厚かましいことを言ってくるようなケースがあります。
僕が有名になったらあなたも自慢できるでしょう?
「僕が有名になったらあなたも自慢できるでしょう?」
そんなことを実際に言われたことがあります。
その自慢のために、何か無償で労力を提供しろという提案でした。
「僕が有名になったらその知り合いだということであなたも他の人に自慢ができるのだから、僕を応援し、サポートしましょう」
というような提案です。
残念ですが、もう一度小学生くらいからやり直したほうがいいでしょう。
知人が有名人になった、そんなものは要りません。
自慢などしても嫌われるだけです。
まして「知人が有名人だ」などと誰かに言ったところで、なんの役にも立ちません。
スキルがあるなら、その人の話をすれば仕事がうまくいかずに困っている人に、紹介できたりするかもしれません。
しかし、有名か否かはあまり関係ありません。
有名なことを利用して何か追々その有名さが何かの役に立つのなら、意味があるかもしれませんが、そのようなトンチンカンだと、おそらく労力を奪われて終わりです。
というより、そのような人と関わること自体がマイナスです。
こちらがその人から少し手を借りれば、相手は見返りとして倍は要求してくるでしょう。
縋りたかりの典型です。
理想主義的な理論は何を推測させるか 曙光 328
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