理性

どのようにして理性は世界に入り込むようになったのか?当然のことながら、非理性的な仕方で、偶然によって、である。人はこの偶然を謎同様に解かなければならないであろう。 曙光 123

苦悩の元凶は理性ですが、一般的には理性ほど素晴らしいものはないとされています。

理性があると、身の安全を確保できると思っています。

「理」に関するものですから、「物を手から離すと下に落ちていく」と知っていることもある種の理性です。そういった様々な「理」に沿った考えをしようということですね。

マナーとされるものは、一見本能的には合理的ではないものの、その「共通の我慢」をすれば、トラブルなく身の安全を確保することができる、とみんなが思っているものです。

それには、確かにある一定の均衡点を保つためのものだったり、一定の効果があるかのように見えるものがたくさんあります。

ただ、それらは極めて社会的であり、複数人の人間がいなければ成立しないものです。

「他の人間がいる」という前提のもと、頭で考えられているものです。

そして、「他の人間に配慮すること」である以上、相手の意識の中で生きています。

理性から起こる「本能的な我慢」

そのタイプの理性には、社会的合理性の裏側に「本能的な我慢」が潜んでいます。

本当は社会自体が虚像なのですが、例えば「おしっこがしたい」と思った時に、この世に自分しかいないと思えば、ひとまず自分にはかからない程度で、自分の寝床などを避けつつ、あまり場所を気にせずどこででもするはずです。

でも普通はトイレを探すはずです。それが理性です。

本能を最優先するとなると、そんな「トイレを探す」ということをせずに、その場で排泄欲を満たすということになるはずですが、尿意よりも社会的な関係性の方を優先しています。

で、理性が働いているときは、本能に我慢があり、そして、「おしっこをする」という身体的行動が保留されているはずです。

もちろん排泄しなければならないという構造そのものや尿意というもの自体が一種の生きる苦しみであり、そうした構造や衝動がなければトイレを探さねばならないということも起こりませんし、我慢する苦しさも起こらないという感じにはなっていますが、そうした排泄欲からは逃れることができません。

しかしそうして起こった苦しみからの解放も理性によって待ったがかかったりしています。

こういう本能的なストレスは、意識の上でイライラのエネルギーとしてたまっていきます。

「ストレス自体がたまる」ということではないのですが、「またこういった状況になると『あの我慢』がやってくる」という条件付けみたいなものが意識の中で複合体になっていきます。

これは意識にとって毒です。

「生苦」生きる苦しみ

理性を外してみよう

理性を解放する、という話になった場合、思春期をこじらせた学生が、裸で公園を走り回る、みたいなことを想像する人が多いと思いますが、別にそんなことをしなくても構いません。

眠たいのに社会的な制約で眠れないとか、お金があまりないせいで食べたかったものより少し安いものを食べたとか、そういった事柄を少しずつ解放してみてください。

それらは本能を無視した理性的な思考ゆえの制限であり、それらが細かな精神的ストレスを作っているという感じになります。

もちろん、あまりに一気に理性を外すと「後々大丈夫だろうか?」という抵抗感がやってきて逆効果になることがあるので、徐々に解放するくらいでちょうどいいのかもしれません。

「合理性の追求」をしている間、ある枠組みの中で思考が止まっていることがよくあります。

理性こそが素晴らしいといいつつ、現状の自分が知っている程度の「理屈」の枠組みの中でしか最適化されていないというのが本当のところです。

常識だ何だといって理性的であることが素晴らしいと思っていても、その理性こそが苦悩の元凶であり、その理性こそが現実の流れをせき止めていることもよくあるのです。

理性 曙光 123

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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