物に対して勇敢

生まれつき、人に対しては思いやりがあったり小心であったりするが、物に対しては勇敢である者は、新しい親密な知人たちを憚り、旧知の人たちを制限する。それは、彼の匿名と彼の容赦なさとが真実に成長して一体となることのためである。 曙光 512

動植物には思いやりがあるのに、物にはあまりない、そんなことを言われることがあります。

特に物を粗末に扱うというわけではないものの、物への愛着と言うか思いやりのようなものはそれほどありません。その理由は、やはり物欲のなさに関係しているような気がします。

僕は昔から、物欲がありません。その根本は怒り中心の性格だったからです。物に対して、生き物ほどの思いやりが持てないのは、もしかしたら根本的にそんなところに原因があるのかもしれません。

あまり物欲がない

欲より怒りのほうが強く、あまり物欲がないという感じですが、これは普通の人より「怒りに満ち溢れている」というような感じではなく、「あれが足りないなあ、欲しいなあ」という不足感としての欲と、「これがあることが不快だなぁ、どこかにやってしまいたいなぁ」という、排斥欲としての怒りの二元論で、その比率を考えた場合、ほとんど0対100という比率で怒りに寄っているというイメージです。

根本は同じような「現状が不満である」という渇望のようなもので、胴体は同じなのですが、出方が違うという感じです。

ひとまず怒りが中心なので、何事も「増やしていこう」という方向性でなく、必然的に「減らしていこう」という方向性になります。まあ絞り込んでいくというイメージでしょうか。

ということなので、あまり物を欲しいとは思いません。

物を所有するということは維持管理を筆頭に煩いが増えます。

もはや物だけでなく、経験すらそのような感じになってきました。経験するとしても、ある意味でかなりの絞込を行うようになってきました。

深みに届かないと楽しくない経験

まだ経験していないことはたくさんありますが、特に経験したいとも思いません。したくないとも思いませんが、どちらでもいいというような感覚です。

確かに想像を超えるようなこともたくさんあるでしょうが、それほど大したものでもないということをいつも感じるからです。ただ一応見える景色が変わるので、相応の体感もあるため、別に拒否するつもりもありません。

友人などでも、職場のメンバーでカラオケに行ったり、家族で飯を食いに行ったりというような事をしているひとがもちろんたくさんいますが、本当に心の底から楽しんでいるのでしょうか?

何となく60%くらいの楽しみくらいのもので、「日常の仕事などのルーティンから比べれば、若干楽しい」くらいの感想がせいぜいなのではないでしょうか。

やるからには、できるだけ全力で楽しむべきだとは思いますので、個人的にはその場その場で楽しんだりもします。

しかし、何となく職場の人達で飲みに行くというのが、本心から絶叫するほど楽しいことなのでしょうか?

短期的な暇つぶしのため「物の購入」

そして「物を欲しがる」という場合、その物に「短期的な暇つぶし」のようなものを求めているような気がしてなりません。

世の中には多種多様の楽しみがありますが、その中のものには深みに到達しないと楽しむことができないタイプの楽しみがあります。

プロの職人でないと見えない世界があるように、ひとつの物事と向き合い続けないと到達できない楽しみがあります。

もちろん、何か他の物事に触れることで、その本題の楽しみをさらに高みに持っていけるということもありますが、単発的な消費で味わえる楽しみなどたかだか知れています。

だから、そうした短期的な暇つぶしのための消費としての物の購入や暇つぶしのための娯楽などのお誘いは全て断っています。それに時間とお金を費やすということは、深みに届くための時間などを持っていかれることになるからです。

物に対して勇敢 曙光 512

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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