なぜかふと父から受けた最高の影響を思い出すので、あえてお父さんとの思い出についてお話しましょう。
僕の体育会系嫌いの原点です。
「生まれた順序で人に差をつけること」
その根拠なき差別に対する思いは、哲学的思考による論証だけに裏付けられているわけではなく、幼少期の体感が背骨となっています。
お正月の一悶着
確か小学校低学年くらいの時だったと思いますが、あるお正月に我が家で一悶着ありました。
それはおじいちゃんが僕のお年玉を1万円と設定したにも関わらず、なぜか弟は半額の5千円だったことに起因します。
お父さんがすごい剣幕でおじいちゃんに怒りをぶつけています。
「それなら2人共5千円にしろ!」
そんな感じでお父さんは怒っていましたが、おじいちゃんとしては僕が長男だからとかそういう理由で弁解しているようでした。
僕としても、自分の分は金額が多いので実際はお得なはずですが、どうも自分の本質が評価されたのではなく、歪んだ評価を受けているようで何だか嫌でした。
それになんだか自分が弟の立場ならすごく嫌だと思ったので、
「じゃあ僕が弟に2500円あげる」
僕は怒るお父さんを制止すべくそのようなことを言いましたが、父の怒りは収まりません。
「あかん!おまえがそう言ってくれるのは嬉しいけど、それではあかん」
お父さんによると、生まれた順序で人の価値に差がつくという発想を子供に植え付けてしまうこと、そうした差別意識がついてしまうこと自体について怒っていたのでした。
「わかった」
そういっておじいちゃんは結局二人に1万円ずつくれることになりました。
お父さん自体は次男です。孫の僕達ですらこのような扱いですから、お父さん自体はもっとそれを感じるような幼少期を送っていたのでしょう。
つまりお父さんとしては、自分の父(僕のおじいちゃん)への戦いだったのです。
幼少期の自分と僕の弟の立場が重なったのでしょう。そしてその時に感じた差別への戦いをその場で行っていたのだと思います。
仮にそうだとしても、僕はこうしたお父さんの姿に対して、今でも尊敬の念を持っています。
「生まれた順序で人に差をつけること」
それは一つの根拠なき差別です。
僕の体育会系嫌いの原点はそこにあります。
スポーツをしている人が嫌いなのではありません。年功意識を持っている人が嫌いなのです。
この時の父への尊敬の念が、そのまま体育会系嫌いの原点となっています。
幼き頃、二人分の同じ量のおやつをぶらさげて帰ってきていたことをよく思い出します。その時の仕事で汚れた手の温かさを今でもしっかりと覚えています。
時を経て
時を経て僕達が20代になったころ、またまたお正月のお話です。
僕はなぜかおばあちゃんに溺愛されており、一家全員の前で「あんたが一番かわいい」とデレデレしだしました。
僕としてはそれはそれでいいのですが、おじいちゃんはすかさず、
「わしはみんな一緒や。孫は全員かわいい」
そんなことを言いました。
お父さんの思いがいつしかおじいちゃんの心を動かしていました。
父は、おじいちゃんの中にあった年功序列、家父長制による儒教的差別意識に打ち克っていたのでした。
おそらくあの大昔のお正月の一悶着から、おじいちゃんは自分の意識を省みたのでしょう。
父の折れない心が、父の父であるおじいちゃんの意識を変えました。
父による「父への勝利」です。
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