歓待

歓待の習慣の意味は、他人の敵意を麻痺させることである。もしわれわれが他人をもはやさしあたって敵とは感じない場合には、歓待は減る。歓待は、悪意をもったその前提が盛んである限り、盛んである。 曙光 319

歓待(かんたい)は、「手厚くもてなすこと」ということで、「歓迎!」と「接待!」だということですね。まさに「他人の敵意を麻痺させること」が主たる目的になっています。つまり歓待は誰かの敵意を麻痺させて、身を守ろうとするような意味があります。

他人の敵意を麻痺させる

知人の不動産屋なんかは、土地の買収の際に不動産オーナーを歓待するそうです。地上げのために土地を売ってもらおうとわざわざ名古屋にまで連れて行ったりするそうですが、そのような仕事はしたくありません。

本当に仲が良ければそんなことをしなくてもいいのですから、仲の良い人とだけ付き合いましょう。

一応普段は「酒の席に呼んでもらうのは構わないが、酒の席でないと話せないというのなら、お取引はお断りします」

とアナウンスしています。

良いアイデアは、酒の席というよりリラックスして楽しい瞬間にやってきますが、あくまで健全な取引は、集中力が保たれている時の話の中で出てくるものです。

つまり歓待は、敵意を麻痺させるというようなことであって、歓待を受けるということは隙を見せるということです。「できれば酔っ払って、隙を見せてください」、というある種の悪意がある相手よりも、正々堂々とした人を相手にするべきでしょう。

過剰接待

以前、旅行会社が修学旅行の決定権を持っている先生を過剰接待していることが問題になった時期がありました。今ではどうか知りませんが、夜の店に連れて行ったりしていたそうです。

夜の店はそんなことにしか使われないのだから、この世に無くていいものだと思っています。小学生くらいの時から思っていました。おそらく20年以上考えは変わっていません。

Z会でもないのにモテようとしてはいけません。

以前少し触れましたね。

モテる、モテないの選択権は己にはありません。

愛のカツアゲ

Z会でもないのにモテようとするな

昔からあのような店に行くような人は、「Z会でもないのにモテようとしている人」という捉え方をしています。

もしZ会であるならば、嫌でもモテてしまいます。わざわざそんなところに行くことなくモテてしまいます。その上で○玉との主従関係が逆転したならば、必ずモテることが嫌だと思うはずです。

つまりハナからZの刻印をもった人は、そんなところに行く必要がありません。もしモテようとするならば服装などにこだわるより、親子のふれあいの時間をすることです。真剣に息子と対話することです。

最近では夜の店やアイドルを肯定するかのように「疑似恋愛でも男は元気になる」と囁かれていますが、広告屋の扇動です。鵜呑みにしてはいけません。

「それで元気になるならば」

と肯定的なことを思ってはいけません。

そんなことをしなくても元気でいれるにはどうすればいいか

それを真剣に考えなければいけません

少しメカニズム的に言うと、脳内物質の出し方というかコントロールが下手なだけです。外部依存ではなく、集中力だけで自己完結できます。

なぜ下手で、自己完結できないか。

それは、ひとつの側面としては○玉に意識が乗っ取られているからです。相手の暴走にそのまま付き合うこと無く、高い集中力をもって観察することです。まずは主従関係の逆転です。

ひとつの訓練

そのためには、ひとつの訓練があります。男性限定です。

一般向けの一種の瞑想と位置づけてもいいでしょう。極めれば、おそらく人生の1/3くらいが一変してしまうでしょう。賢者になれる瞬間もやって来ません。一時的な賢者ではなく、賢者の一員になってしまうのですから、にわか賢者ではありません。憂いのない賢者です。

意識をどこに向けるかによって衝動がどう変わるかということを観察しながら、しばらく頑張った後、出さないでください。観察に対する集中力をあげるため、なるべく独りで頑張りましょう。

排泄の衝動がどのようなものかを観察しながら、感覚を追いながら、意識の変化を追いながら、最低十分程度は頑張って、その後に十分から一時間程度休憩時間を設けてください。あまり連続すると体を傷めますから、二周くらいしかしてはいけません。

意識や衝動をそのまま野放しにすること無く、「自分はこいつにやらされいる」ということに気付けるまで、この訓練を行ってみましょう。

「あくまで本心じゃない、こいつの衝動に付き合ってやってるんだ」

というような気付きがあるはずです。

寝返りも衝動です。体重を支えている部分が「そろそろ他の部分に変えていただかないと、皮膚のこの部分としては辛いものがあります。最悪壊死しますよ」という衝動があって、意識が「寝返ろうかな」とするわけですから、プロセスは同じです。

「生苦」生きる苦しみ

方法論と行動は単純で簡単ですから、あまり意識しませんが、意識を向けるとそのようなことがわかってきます。そして、それには「寝返っても大丈夫かな?」とか、「本当に寝返れるのだろうか?」などなどの「思考」があまり要らないので、すぐに実現します。

人と一緒にいる時、誰かと一緒に寝ている時は、「こちら向けに寝返ったら腕があたって起こしてしまうのではないだろうか?」などと、少し思考が働く場合があるので、その際は実現が少し遅れているはずです。

今まではやらされていた、それをひっくり返して、自らの意志のために使うという風に捉え方を変更してください。

寝返りも体からの信号であり、衝動ですが、「では、今から寝返りのシーンを撮ります」と、何かの撮影の時だったら衝動があろうがなかろうが寝返りはできるはずです。それと同じようなことです。

「衝動には付き合わない」

ということです。それが証拠におしっこでもすれば衝動はおさまりますからわかりやすいものです。

衝動の解消の方法論を意識で考えると、意識も暴走するということです。簡単言えば頭の中の原始的な部分からの信号に聡明な方の部分が乗っ取られ、原始的衝動を文化的解決策で処理しようとしてしまっているのが実情です。

そのプロセスを暴いていきましょう。

そして、それを続けているとそのうち意のままに操れるようになります。

食品などの影響もありますが、そんなものより自らの集中力を上げる訓練をしてください。極めた暁には、体力や表皮のダメージなど、先に体の限界が来るようになるでしょう。

歓待 曙光 319

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ