ほんの稀にですが、感情に苛まれそうになる場合があります。それは苦しい感情であり、苦しい状態です。
もちろんすぐに脱するのですが、そんな時はいつも「くだらないなぁ」と思います。
そんなことを一番最初に思ったのが高校生の時です。
どんな理由だったかは忘れましたが、ある時何かに悩むように何かを考え、嫌な感情に苛まれていました。
そこで十代にありがちな「友人と遊ぶ」ということを思いつき、電話をしてみたのですがあいにく友人はバイト中であり、電話は繋がりませんでした。
一時間くらいして電話がかかってきたのですが、その時には既に嫌な感情は消えていました。
とにかく好きな音楽を聴いて楽器を触ってということをしていると自然と感情はどこかに行っていたのです。
この時、「あの気持ちは何だったんだ?」ということを思いました。
「音楽を聴いて楽器を弾いてということをしただけなのに、それで消えるくらいなら最初からそんな感情を起こすなよ」
というような感想です。
その時から「自分の感情はアテにならない」ということを思うようになりました。
制し難きこの心
世の中では心を強くしたいとか、己の心を制したいという感じで、心を鍛えようとする人もちらほらいますが、そういうことは試みるだけ無駄であり、感情の本質を見破ってしまう方が早くて確実だと思っています。
忍耐力を高めるとか、折れない心を作るとか、感情の耐性を作るとかそうした感じで、心は鍛えるものだというような体育会系の発想がありますが、なんだか方向性が違うような気がします。
感情は純粋ですが、反応にしかすぎません。
その反応は選ぶべき方向を示唆したりもしますが、感情が思考に影響を与えると、思考で解決を試みようという方向性にセットされてしまったりします。つまりアイツの罠にハマるという感じです。
「何かをしなくてはならない」
と思えば思うほど、また嫌な感情に苛まれたりします。
いっそのこと「すべて手放す」くらいのほうが感情の面でも現実的な現象の展開の面でもうまくいきます。
世の宗教にありがちな「神の意志の赴くままに」的なやつは、間接的に「手放す」ということをしているため、一種の効用があります。その実際の構造の把握の本質はさておき、効用だけ見れば確かにある程度理には適っているという感じになります。
「『己』としてあれこれすることを放棄する」という感じです。
この心を自分で制することができないのなら「制することを試みることすら放棄する」という感じで意識が変化すると、抵抗による感情が消えたりもするという構造になっています。
感情のくだらなさ
ほんの稀に起こる嫌な感情は、瞬間的でありながら一種の魔との戦いであり、その戦いでは「少年漫画のヒーロー的な戦闘のありかた」は何の意味もなしません。何の意味もないどころか「戦う」という感覚自体が、対象の肯定と意識の集中、そして抵抗を生み出し、さらに感情が増幅するということで逆効果です。
「この苦しい感情をどう解決するか?」
というような感じで、世の中では何かを解決するための具体的な方法論などが囁かれたりもしていますが、それらがほとんど意味をなさないような過酷な戦いです。
寝に入る時や寝ぼけている時などに不意打ちでそれがやってきます。
それは過去を思い出して苦しむというようなものよりも、過去が影響したような形で未来を絶望に追いやるような形でやってきます。
時に現状を受け入れ忍耐を受け入れるのが正しいかのような演出をしてきたりもします。
そして時に思考上で誤謬を与えてくる、それが嫌な感情です。
考えたところでロクでもないようなことばかり提案してくるという感じです。
本当に必要な痛みなのか?
そう考えると嫌な感情は腹痛に似ています。激痛のあまり対策を打とうにも痛すぎて動けない、それくらいにまで苦痛を与えて一体何がしたいのだ、という感じです。
そのレベルまでの激痛は、本当に必要な痛みなのかとすら思ってしまいます。そんなことをするくらいならそのエネルギーを回復の方に回せと言いたくなります。
「その痛みをもって体にどうプラスになるのだ?」というのと同じように、「その感情をもってこの心にどうプラスになるのだ?」ということを思ってしまいます。
そんな感情のくだらなさに気付いたのなら、感情などその程度のものだと見切り、時空の彼方に飛ばしてやるくらいがちょうどいいということになります。
それはそれだけで苦しさから脱するということでもありながら、そうした方が実際にあるべき正しい方向性を発見しやすくもなります。
はじめまして。貴殿のブログから、たくさんのことを教えてくださりいつもありがとうございます。
つい最近、ちょっとした思い違いから、ミスを起こし、予期せぬ展開になり、期待していた結果に成らずに感情や思考が暴走し、なんでそうしなかったのか自分を責めたり、人のせいにしたりと、後悔や怒り、不安や絶望感といった感情や思考が止まりませんでした。
ふとその時の辛い記憶を呼び起こしては、とことん自分の精神と身体への攻撃にやられて、疲れきったところで、もう過ぎた事だしどうにもならないでしょ、と少しずつ思えるようになりました。
あの時の辛い記憶を呼び起こしては、あれこれ思考で考えては嫌な気持ちになり、モヤモヤを残していきます。
辛くなった時はそのまま「辛いなぁ」と感じてみたり、「もういいでしょ」って呟いてみたりしています。
思考や感情の堂々巡りで痛めつけられて、自分はドMなのかと思ってしまいました。また自分の弱さや無力さを感じました。自分の思い通りにはことは進まない、そんなことを思い知らされた出来事でした。
長文で失礼致しました。
はじめまして。コメントどうもありがとうございます。
過去は一瞬で過去となり、二度とやって来ません。
残るのは今の記憶のみとなり、その記憶は解釈によって姿かたちを変えます。
もし、思考が働いてしまうのであれば、いっそ数年先の成長した自分を想定して、その自分が今の自分に何を声がけするか、というような感じで、客観性のある建設的な意見のみ取り入れてみてはいかがでしょうか。
それは、その出来事を経て得たものがその後を彩ったということであるかもしれませんし、「思い通り」の方向自体が、本質的な思いからは少しズレていることを示唆するものであるかもしれません。奥に潜む慢心や怠惰、欲や怒りの戒めというのが想像に容易いかもしれませんが、それ以上に、凛と立つ数年後の自分が、どのように経験を活かすべきかということをどのようにアドバイスしてくるか、というところに意識を向けてみてください。
そうした思考を経て、これから先自他ともにその出来事を思い出した時、その出来事の解釈をより良いものにできるような、そんな姿勢を発見してみるというのも良いような気がします。
ご返信頂き、大変ありがとうございます。
辛い記憶として捉えてしまうと、どんどん不安が募っていってしまう状況でした。お言葉を頂いた「凛と立つ数年後の自分」をイメージしてどのようにアドバイスしてくるか、意識を向けてみました。胸のあたりが重苦しい気分が続きましたが、しばらくすると数年後の自分は、微笑みこう私に言ってくれました。「おい!どうした。そんなことで。自分次第でどうにでもなるだろ。しっかりしろ!」。その声を聞いた時、ふと緊張がほぐれ、私は泣いていました。気持ちのモヤモヤが解放された感覚がしました。なにか安心感のようなものを感じました。苦しみの中に小さな希望の光を見つけることができました。
お言葉をかけて下さり、大切なことに気付くことができました。大変ありがとうございました。
どんな時でも自分は自分のことを一番大切に思っています。
でも時にその大切に思う気持ちが攻撃性を帯びたりして、結果的に逆効果になってしまうことがよくあります。
ただ、一応の思いとしては、自分は自分の幸せを願っている、という感じになっています。
不器用であることも多いですが、過去の自分も未来の自分も、全て今の自分の味方です。
感じられた安心感を大切にしてください。