今年の夏に鳥取県に行ったときのことです。
大山、米子、境港のあたりから鳥取市方面に移動中、トイレがてら道の駅に寄りました。
男子トイレを出て通路に差し掛かった時、小学校低学年くらいの男子の後ろ姿が見えました。
後ろ姿ではありますが、誰に見せることなくと言った様子で「変なおじさん」が始まりました。
まだ家族の方々はトイレ内にいるようだったので、その後、館内待合室に一人です。
変なおじさんの研究
鏡ではありませんが、反射で自分の姿が見える場所まで移動し、真剣な面持ちで一人、変なおじさんを研究しています(どうやら動きのキレを研究していたようです)。
当然のごとく僕は爆笑してしまいました。
「2000円分くらいは笑わせてもらったなぁ」と思ったので、ジュースくらいは手渡してあげようかとも思いましたが、家族のトイレ待ちである小学生男子に見ず知らずの僕が下手にいきなりそんなことをしてしまうと、僕の方が変なおじさんになってしまいます。
その後、彼のお父さんが弟を連れてトイレから出てきて、彼に「またやってんのか?さあ行くぞ」と声をかけました。
その声がけにすら笑ってしまいましたが、ということはやはり彼は日々研究しているのでしょう。
世代を超えて感染し、飽くなき研究心をもたらしてしまうという点に、一種の普遍性があるということが示されたことになります。
そういえばいつの頃かは忘れましたが、「白鳥」においては、外国の水上生活を送る民族の方々にも通じるというようなことを見たような気がします。
ということは時代や地域を超える普遍性があるということになります。
となるとこれはもはや一級の芸術として扱わざるを得ません。
小学生の感性・着眼点
「眠る感覚との再会」で触れていましたが、結構な頻度で小学生に「くそぅ!」という負けたような気持ちになってしまうことがあります。
小学生レベルの感性・着眼点というものは、洗練さに欠ける点があるかもしれませんが、やはり感性の中心をつくものであったりすることがよくあります。
大人がもたらす面白さは、経験則上考えられたものであり、日常においてはどちらかというと自分の中の解釈を用いて勝手に笑っているというのが本音です。
しかし彼らのそれは、思考を飛び越えていきなり感情に貫通してきます。
その諦めにも似た悔しさは、原点的なブルースサウンドに対するエリック・クラプトン氏の思いのようです。
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どうしても二次性徴期を通過すると、「競争の中において利用しよう」「競争の中で優位に立つために間接的に示そう」という余計な観念がくっつきやすくなります。
まあつまりはバカにされることを避け、誰かをバカにすることで優位に立ちたいというような意図がくっついてしまうというような感じです。
それらがない純化された感性にこそ優れた才能が潜んでおり、ある程度完成してしまった今はそうした純粋な感性の世話にならざるを得ないという点は、個人的には認めざるを得ません。
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ただ、あの日あの時あの場所でというところはありがたいですが、一応変なおじさんについてはコピーということになります。
その感性を大切にオリジナリティあふれる何かを創出してくれることを楽しみにしています。
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年少しといへども奇才あり。
変なおじさんの研究には参りました。
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