孤独や孤独感と「独立して自由であること」という感じで、孤独や孤独感を中心にまたまとめておきます。そして孤独という概念から「他との関連性から独立して自由であること」についても書いておきます。孤独感に苛まれた時に「軽い脱却」を叶えた「孤独感についての独り問答」についても触れてみます。
まず、孤独であることや孤独感は、「分離」が前提になっており、分離の感覚がなければ孤独感は全てなくなります。
世の中では、寂しいとかひとりぼっちだとか、そうした感じで孤独はネガティブなことであり、孤独はいけないことだとか、群れることは正しいとでも言いたげな風潮がありますが、「他人を心の安穏の条件としない」ということを含めてそうした捉え方は単に心を縛るのみになってしまいます。
孤独であること自体は無属性であり、己が感じる「孤独ゆえの苦しみ」は無明がもたらす煩悩でしかありません。むしろ安らぎには「孤独を怖れること」や「孤独に苦悩を感じること」から脱するという方向で捉えていく必要があります。
さて、ニーチェの曙光の中に「孤独」がついたものが結構ありましたのでリスト化しておきます。
また、その他特別企画にも孤独について触れていたものがあったのでそれも掲示しておきます。
そういうわけで「孤独」に関するリスト化ついでに孤独と「他との関連性から独立して自由であること」について書いていきます。
孤独を好む傾向
そういえば孤独と言えば「男性ホルモンが強い人は孤独を好む」等々そうした感じである程度の傾向があると語られることがあります。
個人的には中学生くらいから完全に孤独を愛してやまないという感じでした。といっても、もちろん友だちと遊んだりもしていたので、完全に孤独という感じではありませんでしたが、やはり独りを好む傾向にありました。
その理由は単純で「文化系だから」ということになります。
当たり前のことですが、文化系は音楽にしろ美術にしろ「独りで没頭してこそ」という領域なので、人と一緒にやること自体がペースを乱されるので嫌だという感じになります。
そして特にそうした文化に関するものでなくとも、文系であろうが理系であろうが本を読むとか何かの思索を巡らすとなると、周りの人は邪魔しかしてこないので、独りのほうが圧倒的に適しています。
ただ、それらは完全に人を避けているのではなくて、一人の時間を大切にしているという感じになります。同じような分野にいる人、もしくは各界のプロ同士が集まってハイレベルな会話をすること自体は好きですが、あくまで「自分塾」の時間がメインであって、結局孤独である時間が一番長いということになります。ただ寂しさを紛らわせるだけの群れ中心の集まりなどばかりだと辟易してくるという感じです。
群れることが好きな人達からは「寂しいやつだ」とか「変人だ」とか「孤独な戦いを乗り越えた」とかそうした印象を持たれることがありますが、単に独りで没頭しているのが楽しいからやっているだけであって、「孤独に耐えながら偉業を成し遂げた」なんてな評価をされても困るという感じの人がほとんどだと思います。孤独は人は独りで好きなことに没頭するのが好きなだけで、その時間が至福であるというだけです。
「別に何かを犠牲にしてとかそんなんじゃないんだけどなぁ…」という感じです。
また、ある時大半が文化系で構成された感じの集まりで「パーティーが終わった後、参加者が帰っていった後にどう思うか?」ということが話題に上がりました。
すると一部の人は「寂しい感じがする」とか「虚無感が起こる」というような感想を持っていましたが、大半の人が「ホッとする」というようなことを言っていました。これぞ孤独を愛する文化系という感じです。
その時、その領域の空間と一体化している
「独りで寂しくないんですか?」とか「誰とも会わずにいて気が狂いそうにはならないんですか?」というようなことを言ってくるような人は、何にも本気になれず、没頭するということができないので「簡単な暇つぶし」を常に追い求め、その最たるものである「群れる仲間」との「絆」が大切でしかたないとでも思っています。
しかし、そんな感じで独りで没頭して楽しんでいる時、その領域の空間と一体化しているため分離感が無くなったりします。
それはゲームに夢中という瞬間でも同じです。その時、完全にゲームの空間のリアリティが高まっているので、寂しいという感覚はあまりないはずです。
もちろん、ゲームをプレイしている間でも殴られれば痛いですし、おしっこがしたくなったらその尿意には勝てません。
ということで、物理的なリアリティが完全に無くなるわけではありませんが、意識の大部分はゲームの中に入っているはずです(ということで以前置き引きに遭いました「ゲーセンとがまぐち」)。
ただ、孤独感をごまかすためにゲームなどをしていた場合は、その空間から抜け出した瞬間に「虚しさ」が倍増します。ということで、それは一時的な没頭であり、ある意味で偽物の没頭だということになります。
まあそうした孤独に関する一般論はこれくらいにして、孤独ゆえの苦しみと独り問答について触れていきましょう。
孤独ゆえの苦しみ
さて、僕はある時から「寂しい」という感情が完全に消えました。
しかしながら、昔から孤独を愛してやまないという傾向はあったものの、十代の時はそうでもなかったと思います。
家族と一緒にいる時のほうが安心感を感じたり、友人と遊んでいる時もそれはそれで友人と一緒でなければ味わえない楽しみというものがあったように思います。
彼女と会えない日はなんだか辛かったような記憶もありますし、インコのピーコちゃんなどが亡くなった後は、なんだか虚しい感じにもなりました。
孤独感の苦しみが爆発
しかしある時、何となく「孤独が嫌だ」というような孤独感についての苦しみが爆発したことがありました。20代前半くらいの時で治る少し前の病中末期だったと思います。
「孤独ゆえの苦しみ」というか少なからずあった「孤独感」や孤独感を発端とする苦しみが、その時はなぜかいつもの10倍位に膨れ上がって、「死んだほうがマシだ」と思えるくらいに苦しくなりました。
孤独感についての独り問答
その時、急に「なんだか前にも同じようなことを経験したぞ」と冷静になりました。
そして「結局取り越し苦労みたいなもんだったじゃないか」という感じの感想がやってきました。
それからは独り問答です。
「これ、かなり無駄じゃないか?」
「でも頭では無駄ってわかってても、急にやってくるからなぁ」
「で、例えば空白が18時間位なら孤独は感じないわけでしょ?
じゃあそれが倍の36時間ならどうだろう?」
「同一人物でないといけない的な感じにはなってるんかな?
でも高校の同級生のあいつとはもう数年も会ってないぞ。
誰とどんな間隔で会えばいい設定になってるんだ?」
「家族だけじゃ物足りない設定はわかった。
でも、友人とだけでもダメな感じがする。
彼女は別れたりもあるから…
うーんどうなんだろう?」
「全員と会わない、って場合はどうなるんだ?」
「逆に別れたあの子や数年会ってない同級生みたいに『どうでもいい』感じになるのか?」
「ピーコちゃんは死んだぞ。
でも今でも大好きだぞ」
「まあ相手が誰であれ、いずれどうでもいいといえば、どうでもいいようになるのか」
「じゃあこの24時間位の空白ごときでやってくる孤独感と苦しみは何だ?」
「どうやって孤独の状態から脱するか、ということに関して、わざわざ他人を巻き込む必要なんて無いんじゃないのか?」
「24時間で若干の孤独感がやってきて、しかもその間実は誰かとは会ったりしていて、それで仲のいい人と会っていないからってそれが何なんだ?」
「人と深いコミュニケーションを取って、それが何なんだ?何になるんだ?」
「同じようなことを繰り返して、でも繰り返せないと苦しくなるなんて無駄じゃないか」
「これは今すぐに会ってくれない人たちのせいじゃないぞ」
「この心に問題があるんだ!」
独立して自由であること
「この心を縛るものはこの心が作り出している」
独り問答の後、そんな感じのことを思いました。
しかしその時は、まだその程度の感想でした。
後々、スッタニパータの「犀の角」をよくよく読むと、別に「独りでいなければならない」とは説いていないということが見えてきました。
次の部分ですね。なお、再度のお知らせになりますが、やはり訳としては「犀の角のようにただ独り歩め」ではなく「犀のようにただ独り歩め」だと思っています。
「もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならぱ、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
われらは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には親しく近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め」
で、この部分を字義的に解釈してしまうと、まるで教団の人は良くてそれ以外の人は良くないというような誤解を招いてしまいますが、これはあくまで「独立して自由であること」から遠ざけてしまうような人とは関わるなという感じになるでしょう。
根本的に群れを欲する事自体が心を縛ることそのものになり、そうした執著を起こしてしまうものからは離れていたほうがいいという感じにしか過ぎません。
究極的な「独立して自由であること」は、他との関係性の中で生じるものに心がとらわれないようになることであり、それは「ありのままの現実を観る」ことでしか叶いません。
既に起こった現象、その無属性な現象に属性を与えているのはこの意識であり、その意識の関数が「苦しさ」の原因となります。
そして原因が消えれば結果も消えます。
その原因は、今いない誰かではなく、案外身近なところにあります。
分離がなければ孤独もない
そう言えば以前に不殺生戒について触れたことがありました。
分離の感覚がなければ、全ての生き物が仲間であり、等しくある生命の尊さのようなものが当たり前になってきます。そういうわけで、僕は手を洗ったりする時に細菌を殺したりはしていますが、意図して何かの生き物を無駄に殺すことはありません。それは「戒めだから」というような義務教育的なものではなくて、そうした気に一切ならないという感じです。
だから僕が死んでしまうレベルの大群に刺されかけた場合なら、「この体という生命」のために抗うと思いますが、普段は蚊に刺されても蚊を殺したりはしませんし、米びつの中に米びつ虫がいたりしても逃したりしています。
すると面白いことに、窓を開けつつ米びつ虫を手のひらに乗せて「さあ行ってくださいよ」と言うと本当に窓の外に飛び去ったりするということが起こったりします。
そんな感じで過ごしていると、全く孤独感はありません。そんな虚像に苛まれることもないのです。
「たくさんの生き物と仲間だから」という感じとはまた少し違いますが、「孤独でもなければ孤独ではないものでもない」という感じで、なんだか「孤独か否か」なんてなこととは全く別の領域にいるような感覚です。「分離がなければ孤独もない」ということでしか表現できないような感じです。
少なくとも「孤独であることから脱却する」という孤独感の解消において、「どうすれば人と会えるか」とか「どうすれば友だちができるか」いうようなものではなく、「どうすればこの心として『孤独』という概念が消えるか」というような方向性だということになります。
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