見渡してみるとたくさんの物が周りにあります。
空観的な見方をすると「世界には自分しかいない」というようなことも成り立つ中、それらの物の属性を考えてみると、全てが「お役に立てれば幸いです」ということでその場にいると言うような感じになっています。
「もうお役には立てません」
しかしながら役割を終えたとでも言うべきか「もうお役には立てません」という状況にあるものもあります。
例えば若い時に入社して、その後ご高齢になったスタッフの方がいたとしましょう。その方に対して、ボロボロの御老体に鞭を打ったり、また、役割がないのにその場に拘束するということは酷であるのと同じように、物に対してもその属性に応じて限界というものがあります。
笑顔で役割を全うした方の退職を祝うように、物に対しても「自然に返す」というように解放を与えなければなりません。
「捨てる」というより「自然に帰す」という感覚で解放
物理的に考えても、どんどん劣化していったものは、その後も劣化の一途をたどります。燃やして元素レベルに壊していかねば新しく生まれ変わることができないというものもたくさんあります。
ということで、捨てるというより「自然に帰す」という感覚で解放していかねばなりません。
執著の感覚を抑制しようとすると「抑圧」になり、意志の力も解放されずに残ってしまうという感じになります。
なので、抑え込むという感覚ではなく、解放するというような感覚で執著を取り扱うのが一番です。
物だけでなく執著の対象の全てに共通する
こうした「解放」については、物だけでなく執著の対象の全てに共通します。
何かしら自分の気分を高めてくれた一切の対象に対して、「それが無ければ自分は崩れてしまう」という感覚を持つと執著による苦悶が増してしまいます。
諸行無常という理の中「可能な限り今までと同じように自分を支えて欲しい」と思ってもそれは叶いません。
自分の機嫌は自分で取るとか、自分の肯定感は自分で支えるとかいったことを経て、根拠の必要のない肯定にたどり着かない限りドゥッカとしての「苦」は残り続けます。
自我は「関係」に依り、空的に生じています。
なので、どうあがいても生きている限り何かとの関係性は残ります。
自我においては、一切と無関係となることは構造上不可能です。
しかしながらそれを通じてしか、日々心は現象を受け取ることはできません。
その受け取りに関し、執著の要素があると「思うようにはならない」という不満足としての苦が生じやすくなります。
ただ、執著が要因であるからといってそれを精神で抑制しようとしてもエネルギーは内側に残り続けてしまいます。
なので、苦の消滅に関しては、どこかから来たエネルギーも、それに関連する執著の対象も全てを解放していく必要があります。
その際に、無慈悲な切り捨てのように感じてしまうのであれば、「自然に帰す」という解放の感覚から現象を観るという視点が有効的です。
何かの形で叶う再会
「大きな自然の中に帰り、また何かの形で再会できればなぁ」
というような感じで思いを馳せると、目の前の現象への執著は弱まります。
そしてそれは現実にそうなります。
物理的にか情報的にかはわかりませんが、全く見知らぬ新しい対象との出会いにも、その物や情報の部分的な要素は「解放したもの」によって構成されていると解釈することもできるからです。
物理的な元素や情報的な「影響の影響といった連鎖」等々、ミクロレベルで考えると、直接・間接を合わせれば全く要素が入り込んでいないと言い切る方が少し無理があります。
ということで、姿形は違えど「再会が叶う」ということにもなります。
と思うと、執著の対象に対して「思い出があるのに手放すものか」とか「何とか執著を抑制しよう」という視点から「潔く解放しよう」という視点に切り替えることができます。
苦悶をもたらす執着に関しては、そのような感じで取り扱うと良いかもしれません。