「同じ」であるということを安心材料に使ったり、「同じ」であることを強要なんかすれば、人生は壊滅的に苦しくなります。
世の中は「同じようになれ」というような脅迫で満ち溢れていますが、結局それも相手の都合だったりするので基本的には無視しても問題ありません。自分は相手と同じになろうとしないのに、相手には自分と同じようになれというような構造なのですから、そこに矛盾が生じているので、その人の意見の正当性は宙ぶらりんになっているからです。
思考の限界にたどり着くための大激論
昔、よくYahooチャットや某掲示板、自分のブログなどで大激論を交わしました。
夜の8時から論争が始まって、終わったのは翌朝6時ということもありました。
そのあいだ打ちっぱなしです。
でも、相手と喧嘩してたわけではありません。
あくまで、個人的な人格攻撃などではなく、思考の限界まで、相手の穴をお互いにつき合って、より高いレベルを目指していただけです。
もちろん主張というかアプローチは異なったものでした。
でも、互いに、いや、少なくとも僕はすごく楽しかった上に、そんな人と出会えたことが嬉しかった記憶があります。
思考の方法やアプローチは違えど、深い握手で終わりました。
実際に日を改めて、チャットしながら遠隔飲み会をしていました。
限界まで突き詰める人同士は、結論が異なったりしても、仲良くやれるものです。
「結局わからんもんなぁ」
限界まで行くと必ずそこに辿り着きます。
考えが半端だと執著が生まれる
半端に途中までの段階で考えが止まると、その考えに執著してしまいます。
いろいろと考えを深く進めてみると、たいていのことは、一つのことに固執できるだけの根拠がないことに気づきます。ある考えとは別の考えすら正当性を持っていたりするということを発見するため、絶対性がゆらぎます。
そんな中でも「絶対にこれだ」というような思いがある場合、それは単なる感情的な執著であるという場合がほとんどです。
選択肢を選ぶ時の争い
また、議論がぶつかるのは一つの選択肢をとりあえず決めなけれならない時です。
受け皿がひとつしかないのに、ものがいくつもあるような状態です。
そんな時は、各々に都合があるのでぶつかります。
そんなときは争ってもいいですし、争わなくてもいいです。
人と同じであること
そんなことはなんの安心材料にもなりません。
人と同じであることを目指すのはおそらく不安だからでしょう。
味方ができたような気分になったり、「ひとまず変じゃないから非難はされない」というかなり消極的なものです。
かと言って、人と違うことをするのも違うような気がします。
あくまで人を基準にしています。
「人と同じは嫌だ!」
それだって、他人を意識しています。
「人と同じであること」「人と同じではないこと」
そのどちらへの意識も捨てるという気持ちはかなり爽快ですよ。
改バージョン⇒同じ 改
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