アフォリズム 631-640
- 631.必要以上の抵抗
- 632.頭を埋めている言葉の重要度
- 633.言葉の重要度の変化
- 634.単語による連打
- 635.負いきれない重荷の処分
- 636.物を残して死ぬこと
- 637.どうでもいいと思った時
- 638.殴る準備
- 639.特殊な怯え
- 640.犠牲の業の消滅
631.必要以上の抵抗
個人的経験によって、必要以上の抵抗、拒絶が生まれることがある。
必要以上の抵抗、拒絶であることを理解しているのであれば、それを克服しようとしなくても構わない。
632.頭を埋めている言葉の重要度
どのような言葉、概念を頭の中に埋めているかによって、起こる現象が変化する。
無数にも近い数多くの言葉や概念が頭の中を構成しているが、それぞれに重要度が異なり、各々がどのようなバランス状態になっているかは、日々変化している。その様子は、腸内フローラのようなものとなっている。
そしてその重要度の高いものが、不意に無意識の底に入り込む。
633.言葉の重要度の変化
頭の中を埋め尽くしている言葉や概念のバランスを変化させるということは至極簡単である。
重要度を高めたい言葉を使えば良い、たったそれだけである。
634.単語による連打
いきなり「感情、体感を込めた長文を読み上げる」というのは、面倒でハードルが高い。
また、「私は」、「私が」という概念を含めると抵抗が生まれる。
それはそれで頭の中を埋めている言葉や概念を変化させる大きな一発として用いても構わないが、抵抗が生まれて台無しとなってしまうことがある。
そうしたことから、言葉を用いるという場合、どこぞのカルトがやっていたように、「単語を連打する」というのが最も有効である。
635.負いきれない重荷の処分
不要な物は、そのうち「負いきれない重荷」となる。
物が増えるということは、空間の圧迫やカビの発生率の上昇といったものと同時に、捨てる、譲る、売る、洗う、磨くといった行為の義務のようなものがどんどん潜在的に溜まっていると考えた方がいい。
「捨てずに置いておく」ということは、「洗う」というような後の時間や労力、もしくは再検討などを予約するようなものになる。
636.物を残して死ぬこと
物を残して死ぬことは、様々な処分の負担を誰かに押し付けることになる。すなわち、自らが作った一種の負債である「義務のようなもの」を、我が子などに肩代わりさせることになる、ということを忘れてはならない。処分するかしないか、という選択のストレスも与えることになりかねない。
自らはかつて買う楽しみを得ながら、処分の負担は誰かに押し付けることになるのであれば、少なくとも処分費用は残しておくべきだろう。
637.どうでもいいと思った時
「ああ、人生なんてどうでもいいや」と思ったのなら、所有物を全て捨ててみよう。
どうでもいいのならば、全てではないにしろ、ほとんどのものが捨てられるはずである。
そしてほとんどのものを捨ててから、もう一度、人生を始めてみよう。
638.殴る準備
「どうせ何もしてこないだろう」と、「何を言っても殴られない前提」でやってくる人たちに対しては、いつでも殴る準備をしておいた方がいい。
そうすると実際には殴らなくてもよくなるだろう。
639.特殊な怯え
慈悲喜捨が空間を満たした場合、人によっては怯えを感じる。
強がりも隠した劣等感も、すべて見透かされてしまうのだから。
640.犠牲の業の消滅
「自己犠牲によってでも、誰かのために尽くさなければならない」というものは、魔の囁きである。
誰かのために尽くさないと自分は愛されず、愛されないと生存本能の恐怖心が騒いでしまう、という業であるだけである。
優しい人でありたい、しっかりした者でありたい、ということが、生存本能によって利用されてしまう例のひとつである。
「その行為行動は慈悲と対極にある」「自己愛、我執、怠惰ではないか」という脅しをする者がいる。
そうしてまた外界に依存させようとする。
少なくとも「この心、この私に対する慈悲が成り立ち、余り溢れて外に出る」ということを忘れてはならない。
そして、一切の形成されたものは無常であり、ままならぬものであり、我に非ずということを明らかな智慧で観ることで、自己犠牲という業は消滅していくだろう。
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