のんきはまじめやふまじめという既成概念と違い、一種の才能なのです。「なるようにしかならないんじゃないの」と基本どこか大きく人生をあきらめていらっしゃる。努力をしないというのではありません。したけりゃ努力してもいいんじゃないと、あくまで自分のこともひとごとと考えていらっしゃる。
のんきは楽観主義とは少し違うような気がします。
一般的には、コップに半分残った水を見て「まだ半分もある」は楽観主義、「もう半分しかない」は悲観主義などといいます。
しかし、そんなことで分析されたくはありません。
「半分ある」
そう言ってあげましょう。ただ、事実を事実として捉えればいいのです。
「まだ半分もある」とか「もう半分しかない」とかいうのは、半分ある」という事実になにかしら属性を勝手につけているだけです。
「ただ半分ある」
のんきは、「まだ半分あるっちゃあるし、もう半分しかないっちゃないし、とりあえず半分あるなぁ」という感じです。
「こういうところに無意識は出る、だからそれを分析していこう!こいつを攻略してやろう!」と、ブックオフで100円で売っている本で浅知恵を得た人たちは考えます。
だから、そんな人に「まだ半分ある派ですか?もう半分しかない派ですか?」と聞かれた時には、
「ただ半分ある」
そう言ってやりましょう。
「さあ分析してみろ!そんな浅知恵で人を操れるなど思うな!」
これは心の中で言いましょう。
いえ、そんなことは思わなくていいです。
「ただ、あるし、ない」
「どっちでもいいじゃないの」
これがのんきのキーワードです。
でも、さらに進むと「ただ、ある」になります。
そして「そもそもはない」の視点で捉えられるようになるともっとすごいことになります。
「ただ、あるし、ない」
「はぁ?」としか言いようがないですが、それが本来の現象のあり方です。
ある、ないの話は、すぐにはわかりにくいですが、カントのコペルニクス的転回についてなんとなく考えていけばなんとなくわかってきます。
わかってもわからなくても、特になにも変わりませんが。
改バージョン⇒のんきになるための一歩 改
「のんき」と呑気・暢気・暖気
のんきは、セコセコと忙しない感じがしない「のんびりした性格」やのんびりした気分を意味し、漢字では呑気・暢気・暖気と表現しますが、呑気・暢気は当て字のようで「暖気」がのんきにあたる漢字のようです。
しかしやはり「のんき」というひらがな表現が一番ゆるく、のんきな気がするので、ひらがな表現が一番いいでしょう。
それでふと思い出しましたが、「気」には「〆る」が含まれており、旧字体である「氣」は〆られていると言うよりも「発散されている」という感じで意味が全く異なるというようなことを聞いたことがあります。
そこで考えてみたいのが「のんき」を感じ表現し「気」を使用してしまった場合、「のんき感」がどこかにいってしまうというかのんきとは何か矛盾するような国語表現になってしまいそうな感じがするという点です。
やはりのんきは「のんき」であるべきでしょう。
最終更新日: