ある討論から

甲。ねえ君、君は声がかれましたよ!― 乙。それでは私は論破されたのです。もうその話はこれ以上しないようにしましょう! 曙光 232

声が枯れてしまうのは、それだけ力んで話した証拠です。それだけ感情的にそれだけ情熱的に、必死に語り尽くした証です。

「ある討論から」ということで討論とその結果にかかる、権限や感情の問題について触れていきましょう。

討論に勝ち、表面上は勝ったようになっていたとしてもその結果自体が求めていたものとは異なったものになるというケースはよくあります。

討論と結果

討論には勝てたものの、結果は求めていた結果とは逆行したものだったということがあります。その場合は幾通りかパターンがありますが、例を挙げるとすれば、ひとつは、権限の問題、もうひとつは感情の問題です。

表面上、議論には勝ったようになっていたとしても、その結果に着目すると求めていたものとは違ったものになるという場合、討論内容のそのものだけでなく権限や感情が絡んでいたりします。

権限の問題

討論に勝って得たいものは、何かの選択の決定であったり、感情的な優越感などですが、本来の目的から考えれば、何かの集団的な行動の決定をする場合です。その際に、討論で勝てても決定権が相手にある場合は、議論に勝てても、結果は虚しいものになります。

よくあるのが取締役同士での軋轢です。取締役会で勝てたとしても、結局「株式を保有しているのは誰か」によって、解任という究極手段を取られることがあります。

その際は、討論での正当性よりも、株式会社としてのシステムの正当性が優先されます。これは当然といえば当然のことです。嫌ならば、自分でオーナー社長になることです。

また、従業員、とりわけアルバイトやパート等の人たちが集団で正論のようなものを振りかざしたとしても、経営に関する権限がないので通用しないという場合もあります。

ただ、一応基本的には会社よりも国家、監督機関の権限の方が強いため、会社側のあり方が法令に反するような場合は主張が通用する場合もあります(残念ながら実際の運用のされ方による場合があります)。

感情の問題

さて、「討論には勝ったもののの結果的には思い望んだものとは異なってしまった」ということになってしまうパターンのもうひとつが、感情の世界を思考の世界で何とかしようとした時です。

この際、論理的には勝てたとしても、説得がうまくいかなければ、結果は惨めなものになります。説得がうまくいったとしても、結果がそれに伴うかは確定事項ではありません。一種の行動としての制約などは与えられるかもしれませんが、感情そのものをコントロールすることはできません。

討論そのものには説得という性質があります。つまりこちらの意見などを相手に伝えて、理解してもらい、最終的には同調してもらうか、それを加味して考えなおしてもらうという性質です。

しかし、相手は論理的にはわかっていても、なぜ自分が感情的にそれに抵抗感があるのかがよくわかりません。紐解いていけるものもありますが、解いたからといって、求めている結果の方へと誘導できるかどうかはわかりません。

一つの提案としての説得というくらいの性質しかありません。説得して何かが変わらなくても、それに憂いてはいけません。本当にそんなことで自分は困るのか、今一度よく考えてみるという、自分だけの世界で完結すべきでしょう。相手は目の前にいるように見えて、つかみ所のない幻影のようなものなのですから。

ある討論から 曙光 232

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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