「性格が強い。」

「私は、一度言ったことはする。」― この考え方は性格の強さと見なされている。どんなに多くの行為が、最も理性的な行為として選ばれたという理由からではなく、心に浮かんだときに何らかの仕方でわれわれの名誉心と虚栄心とを刺戟したので、われわれはそれらに固執して盲目的にやりとげるのだ、という理由からなされることであろう!(中略)

できるかぎり理性的なものを選択すれば、自分に対する懐疑が、そしてその程度に弱さの感情が、われわれの内面に維持されることになるのに。 曙光 301 抜粋

「強い性格」として評価されるようなことは、ほとんどがアイツこと自我による騙しであることに気づいている人はあまりいないでしょう。

本来、心というものに強弱はなく「性格が強い」とか「強い性格」ということはナンセンスなのですが、勇気といった言葉に代表されるように、性格的な強弱のようなものが表現されたりしています。しかしこれらはただの印象であり、意識にそうした関数があるというだけであって心自体には強弱がないということだけは押さえておきましょう。

味方のフリをして結局何もしない自我

さて、アイツこと自我はいつでも味方のフリをして、結局何もせずに、何の結果ももたらさないわりにヘトヘトにさせてくれます。

そして自分を守るためなら、いつどんな時でも、「これは使えそうだ」と思えばどんなものでも利用してきます。

特に「やる気」に関しては著しく、「楽しそうだから今すぐ飛び込め!」といって飛び込んだ先は競馬場だったりします。

やる気に関しては、それが仕事などであっても、ほとんどはアイツの要求に答えているだけという場合がよくあります。

「やる気」に関してよくどこかの企業の偉いさんなどが「さすがだ」と世間で言われるような立派なことを説いたりしてくれていますが、そうした発言する事自体、発端がアイツからの欲ですから、安易に騙されてはいけません。

相手もこちらを騙そうとしているわけではないのですが、彷徨いながら寝言を言っているようなものです。アイツに言わされているだけですから「慈悲」の心で相手を慈しまねばなりません。

もし自分を騙そうとしてきたとしても、それはある意味で本心ではありません。それに反応して「本当のことだ」と思ってしまった、「これは自分にも都合がいいぞ」と欲に負けた自分の心だけ観ることです。相手を責めてはいけません。

さて、自分が「完敗してしまった」と思っている、強い人の話に移りましょう。

同じ空間で影響されあうなら

十代の頃までは、体だけでなく、性格が強い、つまり端的に「強い人」といえば、「勇気があり、闘争心があり、仕事などで実績もあるような人」というのが大体の目安でしたが、ある人との出会いによって、強い人と強さとは何かということの概念がおもいっきり変わりました。つまり僕は完敗したということです。

それは以前に触れた「理解者」で登場したおばあさんです。

単に、優しさは強さの上に成り立つということでなく、どうして自分は変化してしまったのか、それを考え、心の変化を観察した結果、わかったことです。

同じ空間にいると、お互いの情報が交じり合います。ですから誰と一緒にいるかは気をつけねばなりません。

犀の角に登場する「自分よりも勝れあるいは等しい朋友」

こうしたことについては、犀の角にも出てきましたね。

われらは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には親しく近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。 犀の角

ところで、犀の角って変ですね。「犀の角のように」ではなく、おそらく単純に「犀のように」でしょう(日本語訳の引用ですから一応そのままにしてあります)。犀は群れませんから。

さて、人と一緒にいると、比率は様々であるものの、その情報空間の支配者の軍配がどちらかに上がります。その時の力の強さが、一種の「強さ」です。

この一見支配者闘争かのように見える情報空間での立ち位置を何とかしようと、「エリマキトカゲ理論」のように装飾で大きく見せようとしたり、自分から話を切り出したり、ホームグラウンドで勝負をしたりする、というようなことが起こります。

しかし、そんなことをしているのは弱者のやり方です。闘争心をむき出しにすると相手も同様に闘争心で戦いに挑んできます。

無言の争いであっても同じことです。そこでの戦いは、相手を完全に叩きのめさないと支配者にはなれません。しかしそこで叩きのめしたとしてもいずれ起こる謀反を孕んでいます。

「理解者」のおばあさんの強さ

あのおばあさんには完全に負けてしまいました。

そこで強さとはあの心持ちなのだということがわかりました。

あのおばあさんによって変わってしまったということです。ということは、当時の僕よりも数段優れた、数段強い意識を持っていたということです。

「儲けたい」などの強い欲に対しての折れない心ではなく、「慈しむことを折れない」という強い気持ちです。その中で、行為として現れた「こちらにきなさい」という欲や、「黙ってついてきなさい」という、一種の怒りは欲や怒りではありません。

こちらがどれほど拒もうとも、論理でねじ伏せることもなく、恐怖を持って威圧的に屈服させることもなく、僕を完敗させてしまいました。

もし少しでも影響されてしまうなら、そのような心を持った人と同じ空間にいることです。

「性格が強い。」 曙光 301

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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