人間は一般に、愛を少ししか手に入れたことがなく、この食物を飽きるほど食べることができなかったので、愛を極めて強調し、偶像化して語ってきた。 曙光 147 序
「利他主義」の原因ということですが、利他主義はもちろん利己主義の対義語としての概念を持っています。利他主義とは、自分のことよりも他者の利益のことを考えるというような主義になりますが、本質的には別に自分を蔑ろにしてまで利他的であれというわけではないと思います。
しかし極端な利他主義となると、自己犠牲の上でも他人に尽くそうというような歪んだ思想になる恐れがあります。
他人の「利他主義」は自分に都合がいい
利己主義と比較して利他主義は美しく見えます、なぜなら、利己主義を良しと「他人」に説かれた場合、その「己」は発言者であり、聞く人からすれば他人であり、蔑ろにされるのは発言者(利他主義者)以外の人たちになります。一方で、利他主義であればその発言者(利己主義者)から見ての他、つまり「利を考え、与えてもらえる対象」に自分が含まれる可能性があるからです。
まあそんな中でも利他主義の方に意識が向くということは他人を踏み台にしなくても自立していられることの自己認識、つまり自己肯定のような要素があり、意識の中に余裕があるということにもなりえます。
一方利己主義は他人を踏み台にしないと自分を成り立たすことができないという自己否定にもなりえます。
利己主義の上で「利他主義」を利用
そう考えると利他主義の方が幾分良い部分はありますが、それが行き過ぎると「自分を蔑ろにしてでも他人に尽くす」という感じになり、ブラック企業の一方的な企業倫理に利用されてしまう可能性があります。
ということで、利他主義を説く側は、結局利己主義の上で自分の都合を考えて利他主義を利用しているという場合もあります。なので、利他主義はとりとめて他人に強いるようなことではありませんし、あまり利他主義とか利己主義に偏らずにそれらを統合して考えるくらいでちょうど良いという感じになるでしょう。
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さて、「愛を極めて強調し、偶像化して語ってきた」というのは、なかなか面白い表現です。
「愛」という表現に持っている人の印象は様々ですが、イエスが言ったような「神の愛」は、いつでも無限に降り注いでいるという感覚です。
愛が限定的でたまにしか現れないと思っているからこそ、たまに現れた愛のようなものに執着し、それが感じられない時は不足を感じて渇望する、ということになっています。
月明かりのアスファルト
人は自分の瞳を生で見ることは出来ません。
しかし目に映っているものは全て自分を照らしているということ感じたことはないでしょうか?
反射した光であっても、自分に向かって光を送っているからこそ見えるのです。
だから、いま見えている全てが自分を照らしているという風に考えることもできます。
僕はそんなことを夜に散歩している間、「アスファルト」から教えてもらいました。10年位前の話です。
僕が歩くたび、もっと言えば立っていたとしても、バランスを取ろうとして顔が動いている間、常に視界は少し変わっているため、どれがアスファルトであるかを正確に示すことはできません。
しかしながら、目の前に映るアスファルトや電柱、道端の草、人の家に駐まっている車、ひとまずそれぞれが視界の上で固定的な形であるわけではないのに、常に視界の構成のバランスは変わりながらでも、常に何かが自分を照らしているのだいうことを感じました。
その時に一呼吸しました。
すると当たり前ですが、空気はずっと続いています。遮断されていると言えば瓶や缶など密閉されているものの内側くらいで、ほとんどのものとは空気とつながっています。
そして自分の息の温かさを感じました。
すると、熱でいえば、空気がペットボトルなどで遮断されていても、細かなところで言えばそれを通り越すのです。
当たり前のことですが、真夏に冷たいペットボトルを冷蔵庫から出せば、部屋は少し涼しくなるという感じで、同時に僕の体温は部屋の温度を暖めたりしています。そしてその熱はペットボトルをぬるくします。
そんなことを思い浮かべた後、アスファルトに僕の影が伸びました。
振り返ると、月明かりが見えました。
アスファルトは僕に月明かりを返していましたが、影の裏側では僕がアスファルトに月の光を返していたのです。
そのような感じで、この世の全てが相互に全く影響を与え合わないことはないということを思ったのです。
そこに愛は感じないでしょうか?
「利他主義」の原因 曙光 147
利他主義の対義語としてのは利己主義について
社会の中で議論されているような題材のことは、概して利己主義対利己主義で、社会目線の議論の中で、より優れた理論を武器に結局他人を説得しようとしているものにしかすぎません。
人がある主義、ある意見を持っていたとしても、「利己主義」について何を考えても、そういった「利己主義自体」は本人が決定したというよりも、周囲の人々によって形成されたものなのかもしれません。
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