瀬戸際の善後策
なんだかんだで切羽詰まった感がないと人は大きく変わることがありません。かといってその緊迫感は特に苦しいものや悲しいもの、そして辛いものでなくても構わないという感じになります。 以前、学生の課外活動に関するNPO法人の人に相談されたことがあります。 「どうすれば大学生により良い経験を与えることができるでしょうか?」 ということだったので
数寄屋で赤裸々に
数年前のことになりますが、すき家の前を通ると一人のおばさんが店内に入っていきました。 信号待ちをしている間、その様子を「道を挟んだ向こう側」から観察していました。 特に座る様子もなかったので、「持ち帰りだろう」と思っていたのですが、注文することもなく、忙しそうな店員さんを尻目に「紅生姜」と「割り箸」と「七味」を勝手にごっそり持って帰り
好事家の硬骨漢
欲を肯定し「欲を叶えやすいような世の中にしていこう」というタイプの人達がいます。しかし、欲は苦しみです。特に生命維持の領域を超えた欲はまさに無駄な欲であり、それを発端としてさまざまな煩いをもたらしてしまいます。 世の中では「そういう性質なのだから仕方がない。欲を叶えられるようにして欲しい、叶えやすい社会にして欲しい」という感じで物事を
一匹狼の一家言
ある時から何事も一人で考えたほうがより良い推論ができるということに気づきました。「それは独り善がりだ」とか「独善だ」などというような人もいますが、「そういう事を言うのならばせめて同レベルで『納得できるような理屈』を話してみればいいじゃないか」というようなことも思いました。なぜなら、独り善がりだ独善だ、などという言葉は苦し紛れの捨て台詞
天邪鬼が暗暗裏に
目の前の現象への解釈は無数にあります。しかし人が各々に持つ視点、重要度のバランスはバラバラなので、解釈の仕方も 千差万別の百人百様です。そして、実際に何かの行動を取ったり選択したりというときには基本的に一つしか選べないので他の人と食い違いが出てくる場合もよくあります。 変な人にもその人なりの考え方や視点があり、それはそれでいいのですが
青二才の値千金
何事も経験の少ない人は少ない人で凝り固まった考え方、物の捉え方がまだ無いので、純粋な眼で物事を捉えることができるという面があります。その一方でもちろん、経験が少ないゆえに「自分が何をやっているのか」ということや「何を理解し、何を理解していないのか」がはっきりしていない分だけリスクを持っています。 「リスクがある」ということはその先にリ
凡人が天才のフリをする時に用いる統計・データに騙されてはいけない
僕はなんだかんだで統計・データの分析が得意な方です。でないと会社経営もあまりうまくいきませんし、トレードなんかで勝てるわけがありません。でもそうしたものは参考程度にしています。 データには精度というものもありますし、何某かの意図が組み込まれている場合もよくありますからね。そして何より市場も人の心理も環境も常に動いており、あくまで統計・
記号としての役割しか持たない人たちと社会的監視機能
洗脳やマインドコントロールについて触れたり、消費社会について思索を巡らしてみたり、面白い映画とあまり面白くない映画の違いを考えてみたり、「手塚治虫のブッダ」の原作と劇場版の違いに遺憾の念を持ったりという感じで過ごしていると、記号としての役割しか持たない人たち、「入れ替え可能なキャラクターとしての立ち位置」について思いが巡ってきました。
広告による威厳の喪失
家にテレビもなければ、もちろん新聞もとっていないので、世間のニュースに関しては全く無頓着で無関心という感じで、普段あまり広告に触れることがありません。しかし、なんだかんだでネット上の様々なページに表示される広告なんかを見る機会があります。 その手の広告は、広告対象となる商品やサービスに比例するように品質が低いものも多くあり、そうした広
生きることに不器用な人たち
生きることに不器用な人たちということで、不器用な生き方についてでも書いていこうと思います。 先に結論から言うと、最も不器用な人は「不器用であることに気付いていない人」です。だからこそ「自分は不器用だ」と気付いている人の方がチャンスが多いということになります。 そして自分が不器用だと気づいている人は、その不器用さを乗り越えた時に自分がた
皮肉骨髄から考える「人の意見」
皮肉骨髄から考える「人の意見」ということで、皮肉の語源となっている達磨大師の「皮肉骨髄」の逸話から、人の意見をどう受け止めるべきかということについて考えていきましょう。 皮肉といえば京都の文化であるということで「現代人の皮肉」では京都の皮肉文化について触れていましたが、元々皮肉という言葉は、達磨大師が弟子に対して行なった最終試験の逸話
洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた
洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みてみました。宗教勧誘を論破して撃退するという感じではなく、相手のフレーム合わせて、対機説法をしてみるという感じです。 普通は宗教勧誘に対して上手く断るという感じだったり論破して撃退するという感じだったりするでしょうが、僕の場合は目的が少し違っていて、追い返すことではなく、短時間で脱
合理化や最適化が機械にできる限界
AIがすごいとか、少し前であればIT化がすごいとか、そうした事が世の中でよく囁かれますが、「合理化」や「最適化」が機械にできる限界であり、結局大切なことは文語ではなく口語でないと何ともならないというようなことについて触れていきます。 哲学カテゴリでも会社経営と商いカテゴリでも良かったのですが、抽象的な感じなので雑記にしておきます。 ま
克服という目線は対象の肯定と意図の抵抗になる
克服という目線は対象の肯定と意図の抵抗になるという感じで、よくありがちな「克服しよう」という方向性自体が、目的と逆行してしまうというパラドクスについてでも書いていきます。 「うつを自力で克服する」では方便的に便宜上克服という言葉を序盤に使っていますが、苦手の克服にしろなんにしろ、「克服する」という考え方自体が、対象に対する執着と「自分
ネット空間での人格
古くは掲示板、最近では動画共有サイトや匿名系SNSなどなどでの振る舞いがよく問題になっていますが、考えてみるとネット空間においては、少なからず人格が変容しているのではないかということを思っています。 一部の人において、それは「その人のその部分」というような一部的なものではなくて、インターネットに触れている時は全く別の人格になっていると
自由意志と洗脳
自由意志と洗脳ついて書いていこうと思います。 自由意志を尊重したいのは山々ですが、まず基本的に自由意志というものはありません。もし、自由意志があるとすれば、それはアイツこと自我の領域を脱しています。 自由意志とは何かを捉えるとすれば、「意志が自由である」ということになりますが、哲学的に見るとそうした意志自体がオリジナルであるのかどうか
哲学と解釈
哲学することと哲学を学ぶことは大きく異なり、また哲学することと解釈することは大きく異なっています。 ではそれらは何か違うのでしょうか? その根本的な違いは、ある具体性を持ったものの内側を見ようとすることと、具体性を突き抜けて、より抽象化していくことにあります。つまり、具体性を包括しつつより全体的で統合された地点から自己解釈を再構成する
他人を喜ばせる
人を喜ばせることはなぜすべての喜びにまさるのか?― われわれはそれによって自分自身の五十もの衝動を一度に喜ばせるからである。ひとつひとつのものは極めて小さな喜びであるかもしれない。しかし、もしわれわれがそれらすべてをひとつの手の中に入れるなら、これまでかつてなかったほどわれわれの手は一杯になる。― そして心も同様である!― 曙光 42
道徳に対するドイツ人の態度
ほかならぬこの民族に満足を与えるのは、いかなる道徳であろうか?たしかにこの民族は、その心から服従癖が道徳の中で理想化されてあらわれることをまず望むであろう。「人間は、無条件的に服従することの出来る何ものかを持たなければならない。」― これがドイツ的な感覚であり、ドイツ的な首尾一貫性である。人はすべてのドイツの道徳学的の根底においてこれ
最終的な反駁としての歴史的反駁
昔、人々は、神が存在しないことを証明することを求めた。 曙光 95 序 西洋的な方法論は、論理的な証明をやたらとしたがりますが、最終的に行き着いたポイントをよくよく見渡してみると、世界各国の土着の伝承、民話に隠されたメタファーと同じだった、というようなことがよくあります。 アメリカなどの最新研究の成果としてよく騒がれているような、哲学
第1100回投稿記念
これで1100記事目になります。1100回目の投稿ということで「第1100回投稿記念」です。 ZERO STAGEで少し嵩増しされた感はありますが、前回の第1000回投稿記念は、2017年9月20日で、前回からの100記事は、その前と同じくまあまあの速度で投稿したという感じです。 そういえばもう少しするとロングラン特別企画「曙光」が終
生贄の狡猾
身を捧げたある人から欺かれようと思い、そうであってほしいとわれわれが望む通りの姿をわれわれに見せざるを得ないような機会を彼に与えるのは、悲しい狡猾というものである。 曙光 420 犯罪者や自殺者などは、現代における生贄のようなフシがあります。 ある人が見栄のため欲のためにしたことが誰かを傷つけ、その傷ついた誰かは怒りのためにまた誰かを
ダナエーと黄金の神
それとは反対の傾向の方を一層よく説明しそうな状況にありながら、現在人々を犯罪者たらしめるこの極端な焦燥感は、どこから来るのか?なにしろ、この人は不正な秤を使用する。あの人は、高額な保険をつけたあとで、自分の家に放火する。 曙光 204 序盤 曙光の注釈によるとダナエーは、ギリシア神話の中のアルゴスの王アクリシオスの娘ということのようで
隣人をもこえて
何だって?真に道徳的なものの本質は、われわれの行為が他人に及ぼす身近で最も直接的な結果を注目し、それに従って決心することにあるというのか?これは狭い小市民的な道徳であるにすぎない。 曙光 146 序 いちばん身近な「隣人」は、家族ということになりそうですが、世の中では家族がいない人もいるので、隣人とは常に接するような身近な人という感じ
「利己的でない!」
あの人は空虚であって充実することを望んでいる。この人は満ちあふれていて空になることを望んでいる。― 双方とも、そのため彼らの役に立つ個人を求めるように駆り立てられている。そしてこの過程は最高の意味で理解されたとき、どちらの場合も、愛、という一語で呼ばれる。― 何だって?愛は利己的でないものであろうか? 曙光 145 利他精神を賞賛しよ
最悪の敵はどこにいるか?
自分の仕事を立派に果たすことができ、そのことを意識している者は、その敵に対して大ていは和解的な気分を抱いている。しかし、別個の立派な仕事をもっていることを信じていながら、それを守ることに巧みでないということが分かると、― 自分の仕事の敵対者に対する怨恨の念にみちた和解できない憎しみが生まれる。― 各人はそれに応じて、自らの最悪の敵がど
利己主義対利己主義
利己主義対利己主義と、これはまあ面白みのあるタイトルです。 社会の中で議論されているような題材のことは、概して利己主義対利己主義で、社会目線の議論の中で、より優れた理論を武器に結局他人を説得しようとしているものにしかすぎません。 もし、「何が正しいか?」ということに対して思索が動き出したなら、次のように考えることをおすすめしておきます
罪としての懐疑
キリスト教は円を完結するために全力を尽くした。そして懐疑はすでに罪であると告白した。人は理性なしで、奇蹟によって、信仰の中に投げこまれるべきであり、さてそれから信仰の中を、最も澄み切って明白な活動舞台にはいったように、泳ぐべきである。 曙光 89 前半 「懐疑はすでに罪である」という構造は、カルトを含め世界中の宗教によくありふれている
その幸福もまた輝かせる
実際の空の濃く輝く色調にどうしても達し得ない画家は、彼らが風景のために使用するすべての色を、自然が示すよりも若干色調を低めて選ばずにはいられないように、またこの技巧によって彼らが、類似した光彩と、自然の色調に対応する色調とに再び達するように、幸福の輝く光彩に達し得ない詩人と哲学者もまた、何とか切り抜けて行かねばならない。 曙光 561
学習と演繹
なんだかんだで教育関係者も身の回りにちらほらいて、教育というか学習について相談を受けることがあります。 実はいわゆる勉強というものがそれほど難しいものではないのですが、出だしがフラフラしているからこそ難しく見えてしまうという事がよく起こっています。 学力というものをつけていくにあたって、その「学力」とは何かというところをつかんでいかな